※緑区の境界線を歩く 第5回      

~発展とよみがえりの歴史の区境を巡る~  

               旭区、瀬谷区、町田市との境を歩きます!

5月24日(水)午前9時30分 十日市場駅改札集合 全日雨天のため24日に実施                 

 コース 十日市場駅⇒(バス)⇒霧が丘高校前バス停⇒若葉台団地横⇒旧武相国境⇒東名横浜町田インターチェン

     ジ(岩川源流遠望)⇒緑区最西端の辻⇒高尾山西の原⇒すずかけ台駅解散 

  霧が丘高校前

この地域は約6000年以上前の縄文時代前期からの遺跡が多く発掘されていますが、昭和37年に東名高速道路が開通した頃も薄暗い山林に覆われ「橫浜のチベット」と言われた未開発地帯でした。昭和37年以降、橫浜市と日本住宅公団、県住宅公社などの大規模開発が始まり、昭和54年JR十日市場駅開通や昭和56年の環状4号線一部完成によるバス路線の拡充により、54年に入居が始まった旭区若葉台、十日市場町と十日市場を分割して56年に誕生した霧が丘の3町は新しい街に発展しました。

平成23年、国は橫浜市を含む全国11地区に環境未来都市を選定し、更に多彩な項目の中で橫浜市は市内の洋光台地区、タマプラザー地区、相鉄線いずみ野線地区と共に十日市場駅を中心に前述の3町の地域を含む4地区を「環境未来都市」に選定しました。

 環境未来都市とは、持続可能で、ひと・もの・ことが繋がり、時代を先駆ける価値を生み出し「だれもが住みたい街・だれもが活力あるまち」を作り出すことを目指します。十日市場駅周辺はバリアフリー化が進み、同時に市建設局の企画による環境に調和したマンション街が今春完成します。霧が丘はインド・インターナショナルスクールを始め近くに東洋英和女学院大学など3大学を持つ文教都市となりました。目前の県立霧ヶ丘高校は昭和50年創設され、有名卒業生には元市長・中田宏氏や阪神タイガーズの矢野選手を輩出しています

➁ 若葉台

  この若葉台は昭和54年に神奈川県住宅公社が企画建設した分譲と賃貸住宅全74棟の団地で人口約14、500人。今年2月、テレビ朝日は若葉台を「奇跡の団地」と放送しました。その理由は、高齢化率が47.8%と高いのに、要介護認定率が12、2%と低い数字に止まっていることと転居のリピート率が高いことが話題になり、住民皆さんのコミ二ティ力の

高さや「オール若葉台」で未来を築く団結力が優れていることにあると感じました。

 以下にその優れた点をご紹介します。

1.    環境整備・企画立案の県住宅公社は山林を要塞のように開発し、車は1階、歩道は地下の立体交差にして、1周4キロの

綠道のほか縦横に走る安全生活道路や圏内に20公園或いは各種の運動施設を配した街作りを基本にし、中央地区にバス発着所を

設け、住民の通勤等バス利用は1日14系統4社500便以上が発車、ほかに医療機関17,介護機関3、商店街現在40店舗とコ

ミ二ティ施設や憩いの広場がありイベント開催等で住民交流が盛んに行われています。

2「一般財団法人若葉台まちつくりセンター」住居の修繕、仲介、公社の関連窓口として団地内の環境補修改善、商店街へ各地域と結ぶ無料コミ二ティバスの運行、無料月刊誌発行・大学教授・公社・住民など参加の識者委員会によるまちつくりと若葉台未来作りのプラン策定と実行。

「NPO法人若葉台スポーツ、文化クラブ」スポーツ18クラブ、文化クラブ20以上、団地内5校の学校開放制度を活用、住民の2割が常時参加、連合自治会の体育祭・文化祭等を支える。

「NPO法人若葉台」 商店街での身障者等支援の居場所作りと生活葬祭等の相談窓口開設、

 

地域交流サロン開設で飲食の提供や自作品の販売、農業法人下のボランテイア畑作業と身障者参加の将来に備えた農作物の販売店開設。この外、県住宅公社、地区センター、ケアプラザ、コミ二ティカレッジ、社会福祉協議会、連合自治会及び各単位自治会、10以上の老人クラブ、PTA、商工会、住民マンション管理組合等が積極的に活動。未来志向の協議に沿って病院の増設、認知症特養ホームの建設、都市計画の変更が予定されています。

③ 武相国境(江戸時代の武蔵国と相模国との境)

市道環状4号線と国道16号の交差点から左右約250mが旧武蔵国と相模国の国境です。現在は背後の旧武蔵国が綠区長津田町。向った旧相模国の交差点から左が瀬谷区卸本町と右が瀬谷区北町です。

下の地図は明治中期に作成された2万分の1の地図で中央部に鍋底形の武相国境が書かれています。

現在の瀬谷区は昭和14年相模国鎌倉郡瀬谷村から橫浜市戸塚区になり昭和44年に橫浜市瀬谷区が誕生しました。

 この旧武相国境には長津田の大石神社にまつわる伝説があり、江戸時代後期(1828)に編さんされた「新編・武蔵国風土記稿」を参考に紹介します。「在原業平朝臣(注・平安初期の歌人880年没)が東国に下る途中(山中で敵に火攻めで襲われ連れの女性と共に)死して石と化した。その石の大きさは人の容(姿・かたち)に同じ。昔は相州の境にあり両国の百姓で争が起こっていたが、その後当村(長津田)のものと決り、大石神社に祀っている」と伝えられています。

国境に置かれていたとする場所については諸説があり特定されていません。

 

 

③-2市道環状4号線

  橫浜市内にある10放射4環状線の内最も外側を通り、青葉区鉄町を起点に綠区、瀬谷区、泉区、戸塚区、栄区、金沢区六浦まで全長365Km。平成27年に一部を残し開通しました。

③-3 国道16号線

  東京近郊を環状に結ぶ道路。橫浜市西区高島町を起点に町田市、相模原市、八王子市、川越市、さいたま市、柏市、千葉市、八千代市、木更津市を経由して高島町交差点を終点とする総延長248.4Km。昭和27年(1952)1級国道に指定されました。

④東名橫浜町田インターチェンジ

インターチェンジの殆どは綠区長津田にありますが、右の鶴間8丁目の出入り部が町田市にかかります。

インターに開発された大部分の地形は、綠区では1番高い「高尾山・1004m」を背にして東側に分水嶺を作り急激な斜面をて

岡部谷戸と言われる南北に長い谷間に至り、その底部に長津田の地名由来とされる岩川とその流れに沿った水田がありました。

現在、インターの主要な部分を成す所に、以前は「高尾池」がありその面積は645坪(2128㎡)堤防261坪(861㎡)、水源

は湧水と言われますが古くは地名に残る「滝沢」の滝がその岩川の源流であったものと思われます。

東名高速道路は昭和28年に企画され44年に世田谷の東京インターから愛知県小牧インターまで3468Kmが完成し、橫浜町田イ

ンターから橫浜青葉インター間の1日平日12時間の交通量が約106700台と報告されて県内1位の施設に発展し、かの池の姿は

現在見る影もありません。

⑤最西端の辻

  橫浜街道の終点、道の真ん中に辻と境界があり、この辻は国道246号線との交差点であり、最西端になります。

田街道はこの辻を起点として西に向います。辻の名称は、そこに住む人々のシンボルであり、辻を大切にして地名に因んだ名称

を付けていました。綠区側では「長津田辻」や「辻自治会」の名称が明治時代の地図に見られ、現在も使われています。

 この辻より南側の人は「鶴間辻」と言いますが、平成15年から始まった246号線と16号線の大規模交差点拡張工事は14年間に

及び、その後の平成29年頃から地図上や交差点標識は「町田市辻」の名称に変りました。

⑤-2 国道246号線

東京都港区三宅坂を起点に神奈川の中央地域、湘南、県西の北側を経て静岡県沼津市に至る全長123,5Kmの一般国道。江戸

時代は矢倉沢往還として整備され東海道の脇往還として利用されました。現在の246号線はその原型経路を辿っています。

又、江戸時代享保年間(1716~)頃には大山詣でが盛んになり、大山街道とも呼ばれました

⑥高尾山西の原

ここは「高尾山西の原」ですが、地元の人は「高尾原」と呼び、その地名は寛文6年(1666)の検知帳にも見られます。

 高尾山は関東3大不動尊(川崎・成田・高尾)に習い文化11年(1814)に「3百人護摩講」により八王子・高尾山の薬王院飯綱大権現から勧進創建されたと伝わる飯綱神社や明治初期日本防衛に不可欠な日本地図が陸軍測量部により作成された時、その基本となる「一等3角点」が高尾山頂上に定められ、そこに記念標柱が立てられています。

 更に縄文時代中期80004000年前の緑区西部地区には遺跡が317ヶ所発掘されています。その1ヶ所の遺跡には最低10人から、この近くの三保町・西の谷遺跡のように100世帯以上250人前後も住んでいましたが、今から2000年ほど前の縄文晩期には、寒冷化と4回の富士山の大噴火で日本列島の人口は縄文中期の26万人をピークに晩期には8万人に急減し、緑区内の遺跡は皆さんが現在お立ちの「高尾山西の原」の1ヶ所だけになり、縄文人生存の危機を迎えました。 

西の原一ヶ所などになった晩期縄文人の生命は弥生時代へ継承されたのかは大きな謎でしたが、最新の東京大学大橋准教

が日本人(345人)の男性のDNAを解析した結果、弥生時代に渡来した中国系や朝鮮系と縄文人が混血して現在の日本人が形成され

たことが証明されました。これにより 縄文人の遺伝子が現代人にも継承されていたことが証明されたのです。 

★高尾山西の原では、昭和57年東西100m南北120mの農地から縄文晩期の土器など500点以上が採集され、晩期の

大型集落が存在したことも予想されています縄文中期には綠区内でも500以上発掘されていた縄文人の遺跡は、晩期

の橫浜市では高尾山西の原の他、小規模の磯子区杉田遺跡と戸塚区桂台遺跡を併せ3ヶ所となりました。 

改めて、西の原で晩期縄文人が生存した条件を、相模原の広大な自然を前に考えてみると、西の原には水源があり、西傾斜地は照射時間の長い西日の暖かな日射しに恵まれ、山岳の麓まで広がる広大な自然に恵まれた中で、より遠くまで食料探しができて、生活舞台は適度な高所にあって、遠くからでも迷わずに帰還出来たことなどが想像できます。更に集団生活で協力し助け合ってきた縄文文化は生存継承され、西の原は民族蘇り(よみがえり)の聖地であったと考えると楽しいですね。       

   終点―境界の案内

  国道246号線中央から次第に左寄りに膨らみ「すずかけ台駅」への進入路が境界線に沿って左に降りてゆきます。             

 左折して鉄橋を進めば田園都市線の駅に向い右折すれば東京工業大学」への進入口です。 第5回はここが終点です。