中山周辺の緑区遺産とわらアート展

本日は、中山周辺の緑区遺産と緑区制50周年記念事業の「わらアート」展示会場を巡ります。緑区遺産は、平成27年に「緑新栄会界隈」が第1号に登録され、現在18件が登録されています。

わらアート会場は、横浜線沿いの小山町の田園の中で、高さ5mの「龍」や「馬」と「亀」が展示されています。このわらアートのモチーフは、霧が丘地区にあった「霧が池」に古くから伝わる「霧が池伝説」で語られる伝説の霊獣や動物たちです。

また、緑区遺産とは地域の人々が愛着を持ち見守っている地元の歴史的資源や文化的資産などを緑区遺産として登録し、その保存活動の取り組みを緑区役所が支援していく事業です。

<コース> ★は緑区遺産                          

  緑区役所前(集合10時)~①台村八幡神社~②弘聖寺~③久保谷戸お滝様★~④念珠坂★   ~⑤明神谷戸お滝様★~⑥杉沢堰★~〇新治里山センター(昼食)~  山田右京之進城址碑~⑧わらアート会場~JR中山駅前解散 

①台村八幡神社

由緒不詳であるが享保九年(1724十一月に社殿を建立し、台村町の鎮守として崇敬されている(神奈川県神社誌)。以前には応神天皇坐像や阿弥陀如来坐像がありましたが、今はありません。

(臺村) 八幡社 除地、二段餘、村の中央にあり、丘上にて松杉及び雑木數多あり、社は一間半に二間にして東に向ひ、まへに鳥居をたつ、夫よりわづかなる石階あり、村の惣鎮守なり、勧請の年代をつたへず、神體は八幡及び本地彌陀(みだ)の二軀を安す、いづれも木の坐像にてたけ三寸ばかりなり、例祭十月十六日、中山村長泉寺持(新編武蔵国風土記稿) 

八幡神社は八幡神(はちまんしん)を祀る神社で、稲荷神社とともに全国各地に多くあります。緑区や恩田川・鶴見川流域では杉山神社が多く見られます。

 

八幡神は、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神として崇敬を集め、誉田別命(ほんだわけのみこと)応神天皇と同一視されてきましたが、早くから神仏習合が進み、天応元年(761)朝廷は、大分宇佐八幡に鎮護国家、仏教守護神として八幡大菩薩の神号を贈り全国の寺の鎮守神として八幡神が勧進されるようになり全国に広まったと言われています。

②大悟山 弘聖寺(こうしょうじ) 曹洞宗

笠原彌次兵衛(小机城主笠原信為の四代目)を開基とし、寛永九年(1631)に明岩が開山したと言われています。本尊は釈迦如来像で相寅歳薬師如来霊場2番です。門前の道には「双体道祖神」「地神供養塔」「馬頭観音」の3体の石仏があります。

<弘聖寺に伝わる伝説>

天狗のつめ⇒暗緑色でやく4㎝、鷲のくちばしのようだったそうです。

縁起書― 昔、あたりは古木が茂り、昼なお暗く山奥の様だった。当時、知恵も徳もある禅師が住み、囲碁の名人だった。天狗が賭け碁をしようと勝負したが、天狗の大負けだったので、約束通り爪を3本抜き取って差し出し、いずれかに飛び去った。と伝えられています(中山小学校90年史より)

③久保谷戸お滝様(緑区遺産)

旧久保村(現在の三保町)にあったこの滝は、農民の自然崇拝の対象として昔から大きな尊敬を集めていました。

文政四年(1821)の大旱魃の際には、請願成就かなったと伝えられています。お不動さまは今も地域に親しまれ、お滝様講中のみなさんにより清掃活動が行われています。

不動明王は、火焔後背(かえんこうはい)と忿怒形(ふんぬぎょう)の形式で「願主久保谷戸」と刻まれています。

また室町時代の印融法印が少年のころ、この滝で心身を浄めてから勉学に励んだと伝えられています。

印融法印は旧久保村(現在の三保町)で生まれた真言宗の高僧と言われ戦国時代に鳥山の三会寺、小山の観護寺など真言宗寺院の中興にあたりました。

緑区遺産の念仏橋も印融法印にちなんで緑区遺産に登録されています。

④念珠坂(緑区遺産)

念珠坂は、梅田の坂下から三保念珠坂公園等に上がる坂です。(梅田から舊城寺方面、あるいは杉沢を経て榎下に抜ける古道の一つで、昭和18年に宮根(三保)の杉山神社から薬師谷戸、三保橋を経て、坂下に至る道路が出来るまで、この道を往来するしかなかった人々は、狭隘(きょうあい)で急峻(きゅうしゅん)な坂に苦労したことがしのばれます。公園の門柱には、“とてもきつい坂で、坂をのぼったところに茶屋もあり、難渋坂と呼ばれていました。”と記されています。

⑤神明谷戸お滝様(緑区遺産)

神明谷戸地区のお滝様は、梅田川に築かれた灌漑用水の取水堰に祀られていました。稲作に不可欠な水が絶えぬ事を祈ってと思われます。

堰も水路も昭和初期にコンクリート化された後も、大量の水を流して、永く田畑を潤しました。現在は堰の役目を終え不動明王がたっています。不動明王像は線彫りの火炎を背に両眼を見開き、左手の羂索を持った坐像の姿をしています。“延享元年(1744)六月杉沢界隈の氏子15人と、世話人、苅谷、佐藤、杉崎3氏により建てられた”と刻まれています。

⑥杉沢堰(緑区遺産)

梅田川にはその昔多くの堰が設けられ、谷戸田が広がり、稲作が盛んに行なわれていました。

梅田川の中心とも言える杉沢付近に堰が設けられたのは記録によると江戸時代までさかのぼると言われています。

杉沢堰が現在のコンクリート製になったのは昭和8年頃で、当時の梅田川にある堰では一番立派なものでした。

平成11年には景観上、貴重な歴史的・文化的資産である土木産業遺構として、横浜市の歴史的建造物に登録されています。

 

○新治里山交流センター

   新治地区には貴重な里山空間が残されています。平成16年都市公園計画が決定し、旧奥津邸建物群やつどいの家などを中心とした計画面積15.3haの都市公園として現在も整備が進められています。

⑦山田右京之進城跡碑(緑区遺産)

この碑は、昭和10年(1935)横浜貿易新報社(現:神奈川新聞社)が開催した、神奈川県下の名勝史蹟四十五佳選により、投票で当選し記念碑として贈呈されたものです。

ここ久保山舊城寺は、市内でも数少ない中世の榎下城(久保城)の跡地に建てられた真言宗の寺院で、城郭遺構を残す貴重な歴史遺産の場でもあります。

かつて、寺の西側には「山田右京之進の墓」がありましたが、住宅地の造成により無くなってしまいました。

⑧小山町「わらアート」会場(緑区制50周年記念事業)

2頁の冒頭に記したように、わらアート会場は横浜線沿いの小山町の田園の中で、高さ5mの「龍」や「馬」と「亀」が展示されています。このわらアートのモチーフは、霧が丘地区にあった「霧が池」に古くから伝わる「霧が池伝説」で語られる伝説の霊獣や動物たちです。

この「わらアート」に使用の藁は会場付近の田圃で栽培された稲の藁から作られています。

栽培している稲の種類について、わらアート会場付近の農家の方のお話しでは、栽培した稲は餅米と普通米を半々位、稲の銘柄は、餅米では「喜寿」、普通米では「はるみ」を栽培しているそうです。

また横浜市の推奨銘柄としては、「はるみ」「祭り晴」とされ、「ミルキークイーン」「キヌヒカリ」なども栽培されています。 

※「はるみ=晴海」は、神奈川県で開発された銘柄で、開発された湘南地区の「海」をいれた名前です。

 

《霧が池》

  現在の霧が丘5丁目にある「霧が丘公園」付近にあった池で、かつては、うっそうとした森林におおわれた場所に「霧が池」と呼ばれる池がありました。

昭和47年4月、周辺の宅地開発により埋められてしまいましたが、池は計り知れない程の深さがあり、一日に7度も色を変える神秘の池でいくら日照りが続いても、この池の湧き水は枯れることがなかったと伝えられています。

池のほとりには弁才天の祠が建てられ、“明和8年(1771)に建立、干ばつが2年も続いた。このため雨乞いをしたところ、水に恵まれ豊作となったので、感謝のお祝いとして石廟を建てた。”と刻まれています。

 

 

《霧が池にまつわる伝説》

1)霧が池の龍

現在は造成工事で埋め立てられてしまいましたが、霧が丘高校の近くに霧が池という池がありました。200年ほど昔、長く日照りが続き、大変困ったので、近くの村々が集まり、寶帒寺や大林寺のお坊さんに頼み、霧が池の弁天様に雨乞いをしました。その時、祭壇の前のロウソク立てに一匹の蛇が巻き付いたところ、その蛇はになって天に昇り、その途端、雷が鳴り響き、大粒の雨が滝のように降りました(緑区役所HP)。

 

2)霧が池の大蛇・龍

霧が池にはメスの大蛇が住んでいて、洗足池(東京都大田区)に住んでいるオスの大蛇の元に通っていました。ある日、若者が馬で物売りに行った帰り、美しい娘に“足を怪我したので十日市場村の辻まで乗せて欲しい”と頼まれ、に乗せて送り届けました。お礼に3枚の小判をもらいましたが、家に帰ると小判は3枚の蛇のウロコに変わっていました。そのウロコを神棚にお供えし朝晩拝んだところ、家は栄え良い事が続きました。

※霧が池の主は、“大蛇という説”と“龍という説”があります(緑区役所HP)。

 

<龍と亀>

   亀は成長すると龍になるとの伝説があります。

   また、古代中国では、龍、麒麟、鳳凰、霊亀(れいき)が四霊獣とされ、亀は龍が生んだ九匹の子の一体とも言われています。

 

<弁才()天>

元来インドの河神であることから、平安初期から末期にかけ仏僧が水に関する事跡(井戸、溜池、河川の治水など)や日本各地の水神として弁天社や弁天堂として数多く祀られました。

近世には、弁才の才が財に置き換えられ、財宝神が強調された弁財天として七福神の一員として信仰されるようになったと言われています