ガイドボランティアと歩く大山道2       2017年(平成29))3月15日実施

国土地理院地図より作成
国土地理院地図より作成

 

田園都市線 二子玉川駅(9:30)⇒①二子の渡し跡碑⇒②兵庫島公園★⇒③二子の渡し標柱⇒大山常夜灯⇒④岡本かの子詩碑⇒二子神社⇒料亭「やよい」⇒⑤光明寺⇒二子溝口宿⇒⑥国木田独歩碑⇒タナカヤ呉服店⇒※田中屋秤店⇒灰吹屋⇒⑦大山街道ふるさと館★《昼食》⇒大石橋⇒二ケ領用水⇒すくらむ21★⇒⑧久地円筒分水⇒⑨溝口神社⇒⑩宗隆寺⇒⑪濱田庄司の碑⇒⑫片町の庚申塔⇒溝口駅解散★ ★はトイレ)

 ①二子の渡し

  多摩川には昔多くの渡し場がありました。その中で江戸時代中期以降矢倉沢往還の渡船場として重要視されたのは、二子の渡しです。寛文9年(1669)溝口と二子の宿が定められましたが、通行人や物資の量が急増したのは江戸後期でした。大正初期まで活用されていて、1人片道2銭、自転車5銭、荷車10銭でした。渡しの権利は瀬田村で、収益は村で管理され、祭の費用などに使われました。渡しは大正14年(1925)に二子橋ができて廃止されました。

 多摩川旧堤と陸閘(りっこう)

明治維新以降二子の渡し周辺は鮎漁や鵜飼いで賑わい、多くの旅館や料亭が立ち並んでいたが、大正初めの堤防計画時、料亭などから「眺めが悪くなる」として合意が得られず、堤防と川の間に料亭や田畑を残す形に変更したため、立ち並ぶ料亭の裏側に堤防を通すことになりました。陸閘を作り、多摩川へ遊びに来る行楽客への便宜を図り、洪水や高潮時に堤防の機能を確保するために締め切ることのできる施設で、容易に閉塞できる構造となっています。 

②兵庫島公園

   正平13 (1358)に新田義貞の次男新田義興が、従者13人を連れて足利幕府から鎌倉奪還にむかう途中、多摩川矢野口の渡で幕府方(足利方)の江戸遠江守らによって、主従は憤死しました。中でも由良兵庫助は自ら首を掻き落としましたが、その首が多摩川と野川の合流部にあるデルタ地帯の島に流れ着いたのであるが、これに対して村人達は災いを恐れて兵庫助をこっそりとこの島に供養した。これが兵庫島の名の由来であるとされています。この中州はその後どんな洪水のときでも流されることはなく現在まで残ったといいます。新田義興は大田区の新田神社に祭られています。(参考:太平記、神霊矢口渡) 

③二子橋の親柱

   橋長440mで多摩川を渡ると交差点の角に「ふたこばし」と彫られた古い橋の親柱があります。大正13(1925)の完成で 昭和52年の大改修で撤去され現在地に移動されました。「大正年代はまだ舟で渡っていた。」ことに思いを馳せてください。

 

④岡本かの子詩碑  大正から昭和にかけて文学界で活躍した岡本かの子は、二子にある大地主・豪商であった大貫家で誕生しました。二子神社脇にある詩碑「誇り」は長男の岡本太郎が制作し、台座は丹下健三、碑文は亀井勝一郎、書は川端康成によるものです。詩碑には「としとしにわが悲しみの深くしていよよ華やぐいのちなりけり」という歌が、かの子自筆で刻まれています。

 ☆料亭「やよい」(旧「おしず」)

 一日一組の完全予約制の料亭として1軒だけ現存しています。

 大正13年(1924)二子橋架橋をきっかけに芸者置屋、待合、料亭を合わせた三業地(花街)が形成され、昭和初期には芸妓置屋35軒、料亭40軒あり、100人の芸者がいたそうです。三業地は昭和34年に廃止されました。かつてはお茶屋が持つ屋形船に七輪を持ち込んで、獲ったばかりのアユ料理が名物でした。

 ⑤光明寺

  浄土真宗光明寺は、甲斐武田氏の家臣小山田宗光が、武田氏滅亡後の慶長6年(1601)に出家して宗専を名のり、興したと伝えられます。かつては二子村にあったが、寛文9年(1669に現在地に移されました。親鸞聖人像、聖徳太子像、浄土七高祖連座像の三幅が市重要歴史記念物に指定されています。

岡本かの子の兄、谷崎潤一郎と同級で第2次新思潮同人の大貫晶川(しょうせん)(雪之助)の墓碑(26歳没)があります。二子宿の時の鐘として使うようになっていた梵鐘もあります。

 ⑥国木田独歩の碑

  明治30年(1897)みぞれまじりの春に、国木田独歩が溝口を訪れたとき、当時旅館であった溝口の亀屋に一泊しました。このことは独歩の作品「忘れ得ぬ人々」のモデルとなり、この作品によって明治文壇に不動の地位を築きました。独歩と亀屋の関係を後世に記念するため、当時の亀屋主人、鈴木久吉が建碑を計画しましたが、志なかばで世を去りました。その後、昭和9年(1934)に亀屋の前に碑を建てました。題字は島崎藤村が書いたものです。平成14年(2002年)旧亀屋跡から高津図書館前へ移設された。また、少し離れたところに岡本かの子の歌碑もあります。大正14年に刊行された第三歌集「浴身」の歌題「桜」138首の中から岡本太郎が選んだ数首がかな子の筆跡で刻まれています。

⑦大山街道ふるさと館(昼食)

  川崎市における脇往還の一つである大山街道に係る歴史、民俗等に関する資料及び郷土にゆかりのある人の美術、文学等の作品が展示されています。隣地が実家である濱田庄司の「柿釉白掛鉢(かけぐすりしろかけはち」(大正15年ころ)が展示されています。入口には、伊豆石で作られた高幡不動尊道の道標が展示され、その左側面には「西 大山道 文政十二 巳 丑年 三月吉日」と刻まれています。二子村の石工、小俣松五郎の作です。濱田庄司については⑪を参照して下さい。

 はかりの田中屋・お茶の田中屋

 創業は宝暦年間(1760年代)で、当時は「よろずや」を営んでいました。その後

 江戸幕府より度量衡販売の免許を受け、ものさし・はかり・ますの販売を開始したことから、「はかり田中」の通称で親しまれ今日に至っています。明治以降も、県内唯一溝口でますの製造販売を行っていました。その後鈴木家は、現在地に製茶工場を建設、自園採取の生葉(武州茶)による茶の製造販売も開始したが、関東大震災で工場の倒壊以後は販売部門のみを継承して現在に至っています。

 二ケ領用水

  徳川家康が用水奉行小泉次太夫に命じて慶長16年(1611)に完成させた用水。現在の多摩区から幸区まで約32キロの神奈川県で最も古い用水で、稲毛領37ヶ村、川崎領23ヶ村の約2000町歩の農業用水できて新田開発が進みました。

 ⑧久地円筒分水(くじえんとうぶんすい)

  中野島と宿河原の多摩川から取り入れられたニヶ領用水は久地で合流し、川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地・二子堀に水を分ける施設で、それぞれの耕地面積に応じて用水の幅を分割する樋(水門)が使われていましたが、水量をめぐる争いが絶えないため、昭和16年に「久地円筒分水」築造されました。サイフォンの原理を応用して平瀬川の下をくぐり、円筒の切り口の角度で分水量を一定に調節するしくみは、農業用水の施設として当時の科学技術の粋を集めた大変すぐれたものでした。なお、久地円筒分水は平成10年に、国の登録有形文化財となっています。

 直径16mの外筒の円周は50.265m。これを灌漑面積に比例して、外筒の仕切り壁を「川崎堀:38.471m、六ヶ村堀2.702m、久地堀1.675m、根方堀7.415m」に区切っています(四捨五入の関係で合計が2mmほど小さく表示されています)

 ⑨溝口神社

  神仏習合で江戸時代までは宗隆寺と同敷地にありました。以前は赤城社と呼ばれていましたが、神仏分離令以降は祭神を天照大神として溝口村の総鎮守として現在に至っています。祭礼用の幟(のぼり)は勝海舟の筆によるもので社宝になっています。境内に長寿ケヤキ、垂乳根の銀杏、歯固め塚等があります。

 ⑩宗隆寺

 濱田庄司の菩提寺としても知られ、山門脇に「濱田庄司の碑」が据えられており「昨日在庵 今日不在 明日他行 濱田庄司」と刻まれています。忙しい日々を送る濱田庄司の言葉です。

 ⑪濱田庄司の碑

  益子焼の陶芸家で、溝口で誕生。第1回の重要

 無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。

  碑文は「巧匠不留跡(名工は細工の跡を残さない)」。

 ⑫片町の庚申塔

 この庚申塔は道標も兼ねていて、側面に「西大山道 東江戸道 南加奈川道」と記されています。この庚申塔は道標も兼ねていて、側面に「西大山道 東江戸道 南加奈川道」と記されています。

 宗隆寺(川崎市高津区溝口2-29-1)石工・内藤家の墓

 内藤慶雲は明治から昭和にかけて、川崎市溝ノ口を本拠に鶴見川、多摩川流域を中心に数多くの石造物を手掛けた石工。狛犬の数も24対(多分もう少しありそう、留五郎の銘では6対)と非常にに多く、多作な石工として「登戸の吉澤」と共に「溝ノ口の内藤」は双璧をなしている。銘を見る限り、初代が留五郎、二代目が慶雲と思われるが、その狛犬のバラエティー…あまりに違う作風の狛犬が多数存在することから、色々と想像がわいてくる。