第3回緑区の境界線を歩く・・・春を待つ緑区の南部 見どころ満載コースを一挙に踏破!!・・・

➊神奈川区との境界

   ここからが神奈川区との境界で、本日のスタート地点。

道路標識には「神奈川区」とある。緑区の南側が鴨居町、北側が鴨居3丁目、神奈川区側が菅田町である。      

   ちなみに、鴨居地区は「鴨居・・丁目」と表示されることが多いが、なぜかこの一画と鴨居駅の東、鶴見川桜並木と横浜線の間の一画が、飛地(とびち)の形で「鴨居町」として残っている。農業専用地区の指定とかかわりがあるのかもしれない(鴨居原及び鴨居東本郷農業専用地区)。

 ➋鴨居原遺跡(鴨居原農業専用地区)

    広く整備された畑地は、鴨居原農業専用地区であるが、同時にあまり知られていないが、「鴨居原遺跡」でもある。鴨居原遺跡発掘のいきさつは定かではないが、“緑区鴨居原地区農業土地基盤整備事業に伴う埋蔵文化財調査報告書”という公文書があることから、横浜市の農業専用地区に指定されたことによる工事に伴い発見、発掘されたものと思われる。地区の南西角には、鴨居駅周辺まちづくり研究会による写真の案内板が建てられており、縄文人の狩猟の場所であったことがうかがわれる。

3区の境界点

    ここが、緑、神奈川、保土ヶ谷3区の境界点である。緑区側が鴨居町、神奈川区側が菅田町、保土ヶ谷区側が上菅田町である。

 ❹鴨居原辻山の庚申塔(緑区遺産)

    庚申待(こうしんまち)(または庚申講(こうしんこう))とは、人の体内にいる(さん)()(ちゅう)という虫が、庚申の日の夜、寝ている間に神にその人の悪事を報告に行くとされていることから、それを避ける為、夜通し眠らず青面(しょうめん)金剛(こんごう)を祀り勤行(ごんぎょう)や宴会をする風習である。庚申塔は、庚申講を18回続けたことを記念して建てられることが多いといわれている。

     鴨居原辻山の庚申塔は、緑区遺産として7番目に登録されており、その造立年(左が明和元・1764年、右が元文2・1737年)以外歴史的背景はよくわからないが、古くは街道の辻にあったことから、地元の人に愛され慕われてきたものと思われる。その証拠に、この庚申塔はいつもきれいに手入れされていて、もしかして、今も庚申講が続いているのではないだろうか?

    庚申塔(または庚申塚)は、沖縄を除く全国に数多く点在し、この近辺でもたくさん見られ珍しいものではないが、辻山の庚申塔は青面金剛像が彫られた立派な庚申塔であり、緑区遺産に登録し保護していこうとする地元の人々の愛情や熱意が感じられるのである。

  庚申とは?

    数を数えるための数詞である十干(じっかん)十二支(じゅうにし)の一つで、57番目を表す。通常「えと」といえば十二支を指して言うが、本来は十十二のことである、従って「えと」は「干支」と書く。この十干と十二支を組み合わせて60までの数字を表す為、六十(ろくじっ)干支(かんし)ともいう。

 

番号

干 支

音読み

訓読み

       参   考

甲 子

コウ   シ

きの    ね

 

乙 丑

イッ チュウ

きの    うし

 

丙 寅 

ヘイ  イン

ひの   とら

 

4

丁 卯

テイ  ボウ

ひの    う

 

戊 辰 

ボ   シン

つちのえ  たつ

戊辰戦争(明治元年・1868年)

6

己 巳

キ  シ

つちの  み

 

 

 

 

 

壬 申

ジン  シン

みずの  さる

壬申の乱(672年)

 

 

 

 

48

辛 亥

シン  ガイ

かの    い

辛亥革命(1911年)・中国

 

 

 

 

57

庚 申

コウ  シン

かのえ    さる

庚申塔、庚申塚

58

辛 酉

シン  ユウ

かの    とり

 

59

壬 戌

ジン ジュツ

みずの  いぬ

 

60

癸 亥

キ   ガイ

みずのと   い

 

 60は、十と十二の最小公倍数であり、組み合わせが一巡することになる数     

 

     である。一日は12(こく)、十日で1旬、一月(ひとつき)は30日、一年は360日、12 

 

     ヶ月、六十歳で還暦、曜日は木(き)火(ひ)土(つち)金(かね)水(みず)。

 

つまり、現在も私たちが使っている暦や時計に深く関わっていることがわかる。

 

 ちなみに、今年(令和5年・2023年)は、癸卯(キボウ・みずのと う)の年である。                  

❺緑区の最南端・竹山南公園   (トイレ休憩)

      竹山南公園は、緑区の最南端である。竹山4丁目にあり、境界のさらに南は、神奈川区上菅田町及び新井町である。竹山団地の人だけでなく、上菅田町、新井町の住人との交流の場でもある。

      また、隣接する竹山高区配水槽は、この地区の受水槽の役割を担う揚水設備である。

 ❻ごはん塚(緑区遺産) 

    ごはん塚は、6番目の緑区遺産として登録されている。

   横浜市のホームページには、次のように記されている。

【ごはん塚は、元久2(1205)年に現在の旭区二俣川付近で起こった「二俣川の戦い」において、御家人・畠山重忠が北条義時の軍勢に敗れた際、逃げ延びてきた家来たちが北条氏の追撃により討ち取られた地です。村人が亡骸(なきがら)を手厚く葬るために、この塚を建てたと言われています。
 ごはん塚と呼ばれる由来は「ご飯の時に襲われたから」「旭区から鴨居まで5個の塚があったから」「お碗に盛ったような塚だから」など諸説あります。】

                                             

 畠山重忠とは、どんな人?

 

 畠山重忠は、「鎌倉殿の13人」ではないが、”坂東武者の

(かがみ)”とうたわれた御家人である。                         

 源頼朝が挙兵、石橋山の戦いに敗れた当時は、平家方であったが、その後頼朝に帰伏し鎌倉に入った。「源平盛衰記」においては、義経とともに一の谷の合戦に加わり、(ひよどり)(ごえ)逆落とし(さかおとし)では、馬を損なってはならずと馬を背負って坂を駆け降ったという。現在、埼玉県深谷市畠山にある畠山重忠公史跡公園には、馬を背負った像が立っている。ただ、重忠は勇猛果敢なだけではなく、人格的にも優れた武将で、鎌倉幕府創業の功臣であるといわれているが、頼朝の死後、初代執権の北条時政と対立し、二俣川の戦い(鶴ヶ峰合戦ともいう)に敗れて滅亡した。 

 3区の境界点

 ここが、緑、保土ヶ谷、旭3区の境界点である。緑区の東側が鴨居7

目、西側が白山4丁目、保土ヶ谷区側が上菅田町、旭区側が白根町である。

 ❽いざ鎌倉へ続く道・鎌倉古道

     横浜の中心街を歩くと、鎌倉道は国道16号線と重なる。町田にも藤沢にも鎌倉道の案内があっ

    て、どうつながっているのかよくわからない。同じ緑区にも長津田にもあって、さらにわからない。      

 つまり、鎌倉道は一つではないのである。鎌倉時代、重要な軍用路であった鎌倉道はいくつもあったのである。

下図を見てみよう。荏田から川和、中山を通り、南下して鶴ヶ峰に向かい、上永谷を通って鎌倉へ至る道、中ノ道がこの細い古道であったと考えられる。

 

前述の畠山重忠は、この道を通って“いざ鎌倉”へと急いだのではないだろうか。そして鶴ヶ峰で討ち死にすることになるのである。

「旧鎌倉街道 探索の旅」芳賀善次郎著より

  初代執権北条時政との対立は、武蔵の国の支配を巡る衝突であったが、「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との虚偽の命令を受けて、130騎ほどを率いてこの道を(諸説ある)鎌倉に向かう途上、2代執権となる北条義時の数万騎(数千騎ともいう)の軍勢が自分に差し向けられたことを知り、周囲が「一旦帰って体制を立て直そう」と進言するのを「ここで逃げては、末代まで謀反(むほん)の汚名を着せられる」と拒否し、覚悟を決めてわずかな兵で奮戦、愛甲(あいこう)秀隆(ひでたか)に射られて討ち死にした、といわれる。 鎌倉幕府の公式編纂書である「吾妻(あづま)(かがみ)」をはじめ、「源平盛衰記」、「義経記(ぎけいき)」等においても、重忠は、擁護、賛美され、常に模範的な武士として描かれており、寛大で公正な人物として登場している。

❾長坂谷公園

     広大な芝生広場を有する運動公園。

無料のフィールドアスレチック、子供用大型遊具、有料のテニスコート、野球場、サッカー場等、スポーツ好きにはたまらない公園。