ガイドボランティアと歩く大山道4 2018.5.16実施

 海老名駅(トイレ)→50m→七重の塔→400m→①海老名の大欅→50m→②相模国分寺→400m→高札場跡→700m→③逆川碑→700m→石塔群→100m→④海老名市温故館(トイレ・15分程の説明)→旧相模国分寺史跡公園(20分程の説明・昼食)→1000m→中央図書館(トイレ休憩)⑤一大縄銘板→600m→⑥有鹿神社→1400m→じょう橋碑→200m→⑦厚木村渡船場跡碑→500m→⑧厚木神社→10m→⑨烏山藩役所跡碑→50m→⑩渡辺崋山逗留の地碑(万年屋跡)→650m→本厚木駅(解散) 

 今回は旧大山街道にあった国分宿から厚木宿を訪ねます。

  スタートは近年急速に発展する海老名駅です。駅前の中央公園では大きな「七重の塔」に驚かせられます。今回は少し寄り道してその関連寺院や史跡を訪れてみます。昼食は史跡公園内の広場となります。午後は天気がよければ「大山」を右前方に見ながら、旧大山街道を歩き海老名の鎮守有鹿神社を訪ねます。相模川の土手沿いを歩きあゆみ橋を渡ると厚木宿です。厚木の渡船場跡碑や鎮守厚木神社などを訪ね、本厚木駅までの史跡巡りウオーキングをお楽しみください。

  <七重の塔(モニュメント)

  旧相模国国分寺にあった七重の塔を、海老名市市制20周年の記念行事として、平成4年に復元した実物の3分の1の大きさのモニュメントです。高さは65mあったそうです。                                  

 ①海老名の大欅 

 相模国分寺の参道入り口に位置し、樹齢560年と言われる県の指定天然記念物です。幹回り9.2m、高さ15mの古木です。指定時には高さが20m程ありましたが落雷により現在の姿となりました。「逆さけやき」の伝承があります。                                                                                                      

②相模国分寺(東光山医王院国分寺)

  高野山真言宗の寺院で旧相模国国分寺の後継寺院にあたります。梵鐘は国の重要文化財に指定され、天正5年(1292)に国分次郎源季頼が国分寺尼寺に寄進した旨と作者は物部国光と刻まれています。また「尼の泣き水」などの民話が残る寺院でもあります。

 物部姓鋳物師 建長4年(1252)鎌倉大仏の鋳造のため、北条氏に招かれた。大仏鋳造の後毛利荘(厚木市付近)に移住定着 関東を代表する梵鐘鋳物師集団 建長寺や円覚寺の梵鐘制作 相模国分寺梵鐘=物部国光作

 國分尼寺の尼と相模川の漁師との悲恋(尼の泣き水)

   ・ある日の夜、尼は日に日にやつれていく若者を見て、「どこか悪いのではありませぬか」とたずねた。
  •漁師「この頃は、いくらあみをうっても魚がかからないのです。それで、ここでは暮らしていけないから、ほの土地へ行って・・」若者は、立って帰ろうとした。
  •尼「お願いです。本当のことを言うくだされ」尼は若者にすがった。
  •漁師「魚が逃げて行ってしまったのです。川につきささるような太陽の光を恐れて、逃げて行ったのです」「陽の光?それなら今まででも同じはずなのに。それがどうして?」
  •「七重塔に太陽の光が当たり、その照り返しですさまじい光が射すのです」
  •真夜中になった。「火事だー。火事だー。國分寺が燃えているぞー」村人が叫びながら飛んで行く。國分寺メラメラとくるった様に燃えて、くずれ落ちていった。おそろしい一夜が明けて、静かな朝がおとずれた。  
   ・それからいく日かたって、國分寺の火事は、恋にくるった尼が火を放ったのだ、という噂が広まった。その時はすでに、若い漁師に思いを寄せていた尼が捕らえられていた。そして、丘陵の上で刑場のつゆと消えた。放火の 罪は重く生き埋めのまま鋸引きの刑になったという。
  その後、尼がほうむられた場所から湧き水が、一滴二滴と落ちるようになった。これを見た村人は、尼さん 罪をわびて流している涙だと言って、湧き水を尼の泣き水とよんだ。 

<国分宿> 

  旧大山街道と旧藤沢街道が通っていた宿場(継立場)でした。慶応3年(1867)に国分宿駅が設置され旅館、料亭、居酒屋、雑貨屋などがありました。明治30年頃が最盛期だったと言われています。国分宿高札場跡は現在の「火の見櫓」付近にあり国分宿の中心地だったと言われています。この付近には明治以降も村役場や駐在所、料亭や旅籠が軒を並べ賑わっていましたが、明治43年に大火(海老名の大火)に見舞われています。

 ③逆川碑(さかさがわ・さかがわ)

 目久尻川の堰から伊勢山の横を流れ、この碑付近でUターンするように国分台地へと流れていたため逆川と呼ばれていました。旧相模国分寺僧寺、尼寺の建設時には資材を運ぶ運河として作られたと言われています。 

<史跡石仏群>

  高札場近くの消防団建物の脇に並んでいます。庚申塔には寛永3年(1850)造立「東江戸道 西大山あつ木」と刻まれています。

 海老名市温故館 

  旧海老名村役場を修理改修し昭和57年に温故館として、海老名市の歴史、民族資料を展示しています。建物は大正7年に村役場として建築され神奈川県内では最古の地方庁舎建築です。                                   

 <旧相模国分寺僧寺跡>

  天平13年(741)聖武天皇の「国分寺建立の詔」により建立された旧相模国の国分寺で発掘調査により伽藍を区画する区画溝から寺域は東西240m、南北300mと見られ東西160m南北120mの回廊をめぐらした大規模な寺院であったことが判ります。大正10年には全国の国分寺跡としては初の史跡として指定され、相模国分寺跡歴史公園となっています。

(史跡の説明があります)          

⑤一大縄(いちおおなわ)

  銘板のあるこの道は口分田の基準線となり東西にひかれています。口分田は大宝律令で大宝元年(701)に定められた土地制度で、その実施に当たっては条里制があります。海老名には、一大縄から五大縄までの地名が残っており碁盤目状の水田区画は開墾期から殆ど変化していないと言われており、この付近は「海老名一望三千石」と呼ばれる豊かな耕作地が広がっていました。

 ⑥有鹿神社(あるかじんじゃ)

  相模国で最古級の神社です。延喜式神名帳に記載され、鎌倉時代には神社界の最高位である「正一位」を賜っています。奥宮は相模原市にあり大変大きな神社であった事が判ります。海老名氏の総氏神でした。 「有鹿」の名称由来には古墳から「ヘラ鹿」の骨が出たなど諸説があります。 

 厚木駅は海老名市にある?

1926年に現在の相模鉄道厚木線の前身である神中鉄道の駅として設置されました。元々この神中鉄道は、相模川を渡り厚木市内まで路線を伸ばす予定であったものの、予算の関係で橋を作ることができなかったのです。厚木のブランドを意識して厚木市の了承を得て、「厚木の玄関口」という意味で厚木駅という名前にしたようです。本厚木駅は名前の通り「本当の厚木駅」という意味でつけられたそうです。     

         

 <あゆみ橋>を渡るとじょうばし碑>があります。いつでも渡れる橋が出来たとことから名づけられました。

 ⑦厚木の渡し渡船場跡碑は江戸時代に相模川に橋を架けることを禁止したため、この付近あった渡し場で常備5艘、馬用1艘の6艘を常備していました。明治41年に相模橋が出来ると廃止されました。

 ⑧厚木神社 

  創建は天延年間(奈良時代)と言われ、始めは牛頭天王社と称し厚木村の鎮守でした。神仏分離令によって明治6年熊野神社と船喜多神社を合祀し、現在の厚木神社に名称を改められました。地元では今でも「天王様」と呼ばれ親しまれています。

 あゝ九月一日」の碑

 大正十二年九月一日午前十一時五十八分激震あり 火各処に起こり余震間断なし 千八戸のうち全潰五百四十九戸 半潰二百八戸 焼失二百五十一戸に上がり 殃死二十八名 負傷六十四名を数 茲に一周年に方死者の霊を弔ひ碑を建て 其災害を記念す 大正十三年九月 厚木町有志

鳥居横に震災時に倒潰した石鳥居が保存されていて、「震災倒潰記念」と刻まれている。

  ⑨鳥山藩陣屋跡(からすやまはん)    

  享保13年(1723)下野国烏山藩主大久保常春が幕府老中に就任した際に加増された役料(1万石)として、この愛甲郡厚木村を含む4郡の飛び地を支配するため陣屋(代官所)が置かれました。                  

  下野国烏山藩は、現在の栃木県那須にあった小藩でしたが、領地には全92条の法度を定めるなど厳しい支配でした。    

 ⑩渡辺崋山逗留の地・万年屋跡碑 

  天保2年(1831)渡辺崋山が宿泊した旅館万年屋の跡地です。渡辺崋山はここで地元の文化人と交流し「六勝図」などの作品を残しています。「遊相日記」には、旅の目的がお銀さんとの再会とここ厚木宿を訪れることだったようです。その後相模川を下り平塚、江の島などを巡り江戸に帰っています。

 ※厚木商店街のシャッターには、厚木宿の様子がペイントされています。

  厚木宿> 

相模川水運の要衝として多くの人や物が集まり発展を遂げた宿場でした。大山参りの参拝者で賑わい、明治の初期には約30軒の旅籠があったとされます。厚木宿を訪れた渡辺崋山は遊相日記に「厚木の盛況は江戸の様だ」と書いていますが、関東大震災では火災や地震により崩壊した家屋は1000戸余りに及びました。