綠区遺産ガイドウォーキング・「ハマの高尾山コース」ガイド内容

 

                   令和21126日  石井光郞

 

1,長津田駅前にて 8;45受付 9時スタート

 

  本日のコース案内

 

長津田宿→大林寺→お七稲荷→王子神社→福泉寺(トイレ)→天王社→岩川沿道→

 

耕雲庵→岩川源流→高尾山→すずかけ台駅 1230解散

 

2,長津田宿 (2分)  この道路は、大山道、神奈川道、鎌倉道、当麻道などの古道や

 

   矢倉沢往還の足柄山から二子玉川を通り江戸に入る東海道の脇街道が長津田で交差し、江戸時代には荏田宿から2里、鶴間宿へ1里の中間にあって、この道路を挟み旅籠が6~7軒、飲食店、酒屋、湯屋、餅屋、煎餅屋など5~60軒が並ぶ長津田宿として江戸時代は繁栄し、道の両端の真ん中には上宿・下宿の常夜灯が灯され、往来する旅人を見守っていました。

 

宿場の情景は、葛飾北斎の浮世絵にも「長津田荏田へ二里」として描かれていますが、現在長津田宿は道路の拡張工事や昭和28年の大火など時代の変遷で宿場の面影 はありません。

 

3,   大林寺 墓地内 (5分) 曹洞宗慈雲山大林寺は、戦国末期の元亀元年(1570

 

長津田村住撰(仙)(みなみ台5丁目)に了性が開基したものを、北条氏直・秀吉・家康に仕え優れた論客で外交に武功を残した板部岡融成江雪は、秀吉から岡野の姓を受け、天正19年(1591)長男の岡野房恒が長津田村の初代殿様となった時、荒れていた大林寺を中興し、現在の厚木市三田の清源院第5世英顔鱗哲大和尚を招き開山しました。

 

 そして、2代目岡野成明が現在の御前田の地に大林寺を移籍し、岡野家の菩提寺として発展してきました。

 

今、眼前に見る岡野家歴代の墓碑は、右から初代殿様・房恒の両親や妻から江雪夫妻、以下4代目、宝篋印塔の初代殿様房恒、23代から左角の10代目迄までが並び、横浜北部での殿様墓では最も優れたものと言われ、綠区地域史跡に指定されています。

 

 墓地2ヶ所のシキミ(ビ)はモクレン科の常緑香木で花は淡い黄色となり、有毒性の実は墓が荒らされないように植えられたとも言われます。

 

また、この墓地には森繁久弥の揮毫による奇術師・引田天功や長津田教育の祖で歌人の関根範十郎、萬屋の主人で俳人の兎来のお墓があります。

 

4,大林寺境内 (2分) 岡野家の家紋は「丸にかたばみ」ですが、大林寺も同様の家紋が用いられ本殿屋根の鬼瓦にも見られます。これは、大林寺に長男の房恒が父の菩提を弔ってから縁の深さを表すと共に、岡野家の直径家系は昭和42年に14代で途絶えたと言われ、現在は無縁となった殿様墓の管理は、縁の深い大林寺で行われています。

 

その大林寺も江戸時代に2度、大正時代に1度失火に見舞われながら、檀家の支 援で復興し、現在の建物は平成20年に建て替えられたものです。

 

これから本殿内部と併設された五百羅漢像を拝観させて頂きます。(予定15分)

 

5,   その他の歴史的遺産 (1分) 街路に面した延命地蔵堂には嘉元元年(1303)の高さ140センチ緑石板碑に浄土真宗の念仏理念を刻まれたものが残されています。

 

また、大林寺梵鐘は寛政8年(1796)のものは大戦時に供出され、その後口径1メートル強、高さ16メートル重量450貫(1687キロ)の梵鐘が富山県高岡市・老子製作所で鋳造され奉納されています。

 

 

 

6、お七稲荷 (3分) 江戸本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘・美少女で15歳のお七は、天和2年(1682)駒込の大円寺から失火した大火で、同地の正仙寺に避難した折、寺小姓・生田庄之助と恋仲になり、家に帰った後、吉祥寺門前に住む火事場泥棒の吉三郎にそそのかされ、火事があれば庄之助に会えると思い込み、翌年3月2日夜放火して吉三郎と共に捕らえられ、吉三郎の年齢偽り発言で16歳とされ同29日鈴ヶ森の刑場で火あぶりの刑に処せられました。

 

   これがお七吉三の悲恋物語として井原西鶴の「好色五人女」にフイクション化され、芝居や歌舞伎で市中に広がりました。

 

この事件で、三代領主房勝は天和2年から盗賊追補役になっていて、何らかの関与があったのではとの疑惑から、一時その祟りを鎮めるために天和時代以降にお祀りをしたとの説がありますが、近年は縁寂の柳田家に関わる同事件を鎮めるためにお祀りしたと言われ、別名「福寿稲荷」とも言われます。

 

 

 

7,   王子神社(4分) ご祭神に伊弉諾命、速玉男命を奉じ、初代房恒が長津田村の鎮守として平安時代から国家安泰・人々の平穏に霊験あらたかな熊野三山の速玉大社から若一(にゃくいち)王子権現を勧進して、慶長元年(1596)に創建し、別当寺として福泉寺を開基しました。

 

  「若一王子」とは「若宮一王子」の略で、本宮・速玉大社の祭神の第一位の御子神をお祀りしたと言うことです。

 

また、「別当寺」とは、神社の境内に建てられ、本職以外に他の職務も統括する別当が居住し、読経や祭司・加持祈祷と共に神社の経営管理を行うお寺のことです。

 

 その後の歴史は明治維新の神仏分離令により「若一王子神社」と改め、明治6年村社になり、昭和18年7月「王子神社」となりました。昭和61年には氏子の支援により現在の姿に改築がされました。

 

社頭のマツ科の常緑樹モミノ木は、2本聳えていましたが、樹勢が弱まり昭和47年に右側にあった樹齢130年の1本の大木が倒れ、それから48年を経た残る1本が横浜市の古木名木に選定されています。

 

 

 

8,   福泉寺 (トイレ休憩後・3分) 高野山の真言宗、薬王山医王院福泉寺は、寺の縁起に因れば、「明應元年(1492)3月尊祐と言う僧により檀家のない祈祷寺として開山、後に長津田初代領主の岡野房恒が王子権現の別当寺としたと伝えられます。」とあります。

 

 江戸時代は別当職の重みから、岡野家の庇護のもとに田畑山林の寄進を受け、徳川将軍家からは4石5斗の朱印状を賜るなど繁栄しましたが、明治維新後は別当職も失われ、檀家もなく失火や本殿移設などで無住職状態となりましたが、明治後半、山崎戒心という僧が近隣信者の協力で小さな建物で復興の一歩を起こし、戦後も腐心の中昭和45年に現在の本堂が再建されました。

 

その後の福泉寺は。本堂お参りに大きな数珠の設置、戒壇巡りやぼけ封じ観音・ポックリ大師、六道巡り、新興所帯への墓地提供或いは愛玩動物墓地など時代の流れに応じた対応がなされ「福徳の泉が湧く如く」境内で御利益をいただけるお寺として、独特の創意工夫で発展がなされています。

 

 

 

9,天王社 (3分) ご祭神は須佐之男命。天王社は江戸時代以前には「牛頭天王社」といわれ、京都八坂祇園社(神社)を本社とする疫病平癒の守り神として現在も全国に2000社以上の分社があります。

 

この牛頭信仰は、一説に斉明天皇(656)の時、高麗からの使節が牛頭山に祀った須佐之男命を京都、八坂の地に奉齋し、元慶元年(877)疫病が流行した時、勅使が祈願し治癒したので、これが祇園社発展の契機となったと言われます。

 

    当地の天王社縁起は不詳ですが、享保年間(1716~1735)に疫病が流行り、この前後に中村の引田氏が勧進したとの説があり、寛政8年(1796)頃に、深田から現在の地に移遷されたとも伝えられます。

 

    境内の樹木では、社殿の右後に北アメリカ南東部原産で庭園などに見られる松葉が3本で長さが20~50センチもある「ダイオウ松」があります。俗に言う松かさは長さ20センチ、幅5~7センチにもなり、日本には明治末頃輸入されたと言われます。

 

   ※ これから階段を下ります。足下にご注意下さい。

 

 

 

10,種月山耕雲庵と関根範十郎(3分) 大林寺過去帳に、元禄4年(1692)8月「種月耕雲上座 導入耕雲事」として、耕雲という雲水が本尊虚空蔵菩薩を奉じて霧ヶ谷の背後に庵を営んだが猪などが群れをなし住むことはできず、長津田岡部谷戸に移り自ら庵を開基して、大林寺8世円良和尚を請じ開山し、種月山耕雲庵と称した。(十日市場村史・相澤雅雄)と記されています。

 

以降、耕雲はこの庵で写経や仏道修行に励みました。

 

耕雲が奉じていた虚空蔵菩薩は、福徳と智恵を無限に備え、衆生の望みに応じて虚空のように広大無辺に分け与える菩薩といわれ、日本では8世紀末頃から信仰が広まりました。

 

   時を経て安政4年(1857)10月には、岡部谷戸の岡部兵右衛門宅で埼玉生まれの関根範十郎が子弟5、6人に教えていましたが、子弟の増加により耕雲庵に移り、紅林塾を開校し、この時塾生は19人と言われます。

 

明治3年には中村の引田邸を借りて移り、明治6年には江林塾が「公立長津田学舎」となり、範十郎は教師であり校長でもあって生徒は61名。明治13年には、師範学校を卒業した子息の啓三郎も教育に携わりました。

 

その後も大林寺・髄流院と移り明治21年(1888)4月「村立小学校長津田学校」が誕生しました。平成19年10月には長津田に本格的な教育が芽生えてから150年になりました。耕雲庵が長津田教育の発祥の地とされている所以です。

 

 

 

11,岩川の源流 (4分) 皆さんお立ちのこの橋は「道正橋」と言い、この橋を渡った先に、「道正寺跡」があったことに由来している橋です。

 

長津田の町名は、明応9年‘(1500)の記録に「都筑郡長津田村」、秀吉の検地帳には「ながつた」とあったと報告されており、その由来には「この地域の中央部に谷戸から流れ、田を潤す長い川がある」事からとの一説があります。 津は港の船の泊まり場であり、長津田の岡部谷戸の地形も人の行き止まり場所にその源流が隠れていることが、今回地元の人に尋ねて分かりました。

 

岩川は、現在王子神社近くの蓮台橋までの1838メートルが準用河川とされ、それからの上流は現在の地図をご覧頂いてもお解りの通り、倍以上の長さがあり全長は3600メートル以上となって長津田の中央を流れています。

 

同時に古い地図をご覧頂くと、岩川の源流の一つが一番奥の滝にあり、地元ではこの地域を「滝沢」と呼び、その滝からの水を溜め池にし、その池の面積は645坪(2130㎡)で260坪以上の堤防があり、下流の水田を潤していたのです。

 

現在、池のあった部分は今やすっかりインターチェンジの中に埋められ、岩川の源流は周辺の山水が地下に流れ湧き出ているものと推察されます。

 

序でながらこのインターチェンジは「横浜厚木インターチェンジ」と言いますが、再度地図でご確認頂けますように、ここは皆さんの綠区の境界線内にあります。

 

 

 

12高尾山  (7分) 地元の方は「高尾さま」と愛着を持って話されます。

 

    綠区で一番高い山、100.46メートル。綠区遺産登録NO12.

 

    この高く眺望の良い所で起きた4点の綠区の自慢話をご紹介します。

 

  1)環境  今日は晴天ながら風景は見えませんので写真でご披露しますが、一目眼前の眺望が素晴らしい。大山から丹沢、富士山、秩父連山などの山々が何の障害もなく綺麗に見えます。山頂から東は岩川へ、西は町田方面へ雨水の流れる分水嶺を築き、眼下を見れば246号線と16号線バイパスの交差する所が今は隣の町田辻ですが、かっては「長津田辻」といわれ綠区の最西端になります。

 

当地にお住まいの方々は「長津田辻自治会」を結成しその名を次世代に残し、この高い山を何時の頃からか、信仰の厚い関東三代不動尊(川崎・成田・高尾)の高尾山に比し、「高尾さま」と呼び、薬王院飯縄大権現から、文化11年(1814)には三百人護摩講により「飯縄(いづな)神社」が創建されたと伝わります。

 

厄除けの神様であり、時代の変遷の中では養蚕の神様と崇敬され、正月や753の

 

お祝いへの参拝から4月の例大祭には、満開の桜を眺め福泉寺より住職を招き氏子の平安祈願が行われます。

 

2),1等三角点  

 

皆様の足下に一本の杭があります。それは明治政府が軍備上から正確な日本地図作成のため、明治15年(1882)陸軍参謀本部測量局(現在の国土地理院)が全国で972ポイントのうち、神奈川では8か所3角点を選定し、横浜ではこの高尾山一か所が選定されました。

 

最初の基線が相模野を底辺にして、高尾山と厚木の鳶尾山の角度と位置を計算し4

 

   5キロの三角網を次々に全国に拡大して、大正15年(1925)に日本の5万分の一地図が完成しました。ここにお見せするのが、明治時代のこの地に三角点設置の謄本と陸軍が発行した2万分の一の地図です。

 

3)辻の無線中継所  

 

昭和16年(1941)の開戦以来、日本の無線通信は多重式回線(一つの電波に多くの 話を載せる事ができる電波)の必要に迫られ、高く見通しの良い高尾山が選ばれて、翌年4月工事が開始され、物資難の中、ご覧のように木柱3本を高さ25メートルに繋ぎ、アンテナを張った通信網は昭和19年10月1日に東京ー大阪、東京―八丈島の2ルートが完成、中継された情報はラジオで「警戒警報発令」「空襲警報発令」と戦中報道に即応されました。この中継所はご覧の地図の場所にあり、戦後も活躍していましたが、昭和31年12月に役目を終えることになりました。

 

4)西の原遺跡  

 

高尾山の西斜面を「高尾原」と土地の人は呼びますが、古くは「西の原」といいました。この場所は日本人の生命を繋いだ貴重な場所でした。

 

縄文時代の中期後半(BC4000頃)、日本列島はこの地図をご覧の通り、縄文海進で海水が5メートルほど高くなり秩父辺りまで海であり、徐々に減水するに変わって、後期(BC500~3000)には富士山の噴火が盛んとなり、気候は冷寒気で天候不順が続き、動植物の減少などが重なり一時は26万人と推察される縄文人の人口は三分の一以下に急減しました。

 

これは、考古学的にも医学的にも証明されている事実ですが、寒さと飢えで人々は居住する場所にも彷徨い困り果てたなかで、発掘遺跡から縄文終末期の遺物が発見されたのがこの「西の原遺跡」です。気候温暖なその広さは東西100m、南北120m、標高85~90mの畑地でした。この図で示せば、この付近です。終末期遺跡はこの他多摩区長尾、磯子区杉田、戸塚区桂台でも発見されています。

 

この時代の食料危機を救ったのが縄文末期渡来の稲作です。弥生時代にかけて何百年かで普及したことは皆さんご承知のことで、それ故に皇室で現在もお米の豊作を祈願、感謝する新嘗祭の伝統行事が民族の魂として丁重に行われているのです。

 

余談ですが、富士山の噴火は70万年前からあり、現在も活火山です。

 

この縄文後期には4回噴火があり、関東一円に降り注いだ灰は褐色の細かい砂質の土で、関東ローム層と言われます。

 

貞観6年(864)の大噴火は青木ヶ原を形成し,宝永‘(1707)の江戸市中迄大量

 

の灰を降らせた大噴火迄の間に16回あり、現在も時々顔を出しています。

 

 

 

13.東京工業大学とすずかけ台駅 (2分)

 

樹林の中に高い校舎の見えるのが緑区長津田町にキャンパスを構える東京工業大学(以下東工大)です。コロナの影響で現在一般者の入場は禁止されていますので、ここで「すずかけ台駅」の開業と合わせご紹介します。

 

東工大は理工系の優秀な学生が集い、平成22年に卒業生の白川工学博士の化学部門ノーベル賞受賞に続き、平成28年には大隅榮譽教授が生理学・医学部門でノーベル賞を授与された学問のアカデミアであり、緑区の誇りでもあります。

 

本校が東京・大岡山にあり、昭和50(1975)長津田キャンパスを開校しましたが、開校に際し、大学側の希望や地元有志の方々の東急電鉄側との交渉努力で、町田の内部へ延びていた当初の計画路線は、図のように246号線側に変更され、駅名も東工大から提案された古代ギリシャの哲学者・プラトンの作った学園に多く植えられていたスズカケ(プラタナス)の木に因み、「すずかけ台駅」が採用され、昭和47年41日長津田駅・すずかけ台駅間が開業されました。

 

現在は、「東京工業大学スズカケ台キャンパス」と言います。

 

コロナ禍から開放されましたら、改めて構内施設や学食などをお楽しみ下さい。

 

    

 

本日は拙いガイドで失礼しましたが、長らくお疲れさまでした。

 

これで散会とさせて頂きます。尚、トイレは駅構内にございます。   以上