③農耕車両通行用の信号(現在は撤去)②なすな原遺跡で発掘された最古の縄文土器⑪恩田茶屋(渡辺崋山画)⑫丸山教(恩田高砂教会現在消失)⑮恩田川改修前にあった北門堰⑯北門古墳から発掘された埴輪の破片からの複製 上の写真は地図上と本文中の番号に対応しています。
①つくし野の地名&つくし野駅の駅名の由来
現在のつくし野駅周辺を東急不動産が分譲するに際し、町名を公募して昭和42年(1967)年3月に命名された。この公募では日本全国から96,865通の応募が集まり、岡本太郎(画家)、磯村英一(都市社会学者)、井上靖(作家)、石井好子(歌手)、菊竹清訓(建築家)、手塚治虫(漫画家)の計6名の審査委員によって、これらの応募の中から選ばれた。駅の仮称は「小川駅」であった。
《沿革》
昭和40年(1965)7月6日 - 小川第一土地区画整理組合が設立、宅地造成に着手。
昭和43年(1968)10月16日 - 小川の一部より、つくし野一〜四丁目を新設。
②東急長津田検車区
東急田園都市線・こどもの国線長津田駅の西側にあり、多くの留置線を擁する東急電鉄最大の車両基地である。田園都市線・大井町線・こどもの国線の車両を主に担当するが、上記路線以外の車両も検査などで回送されている。
敷地面積:70,081㎡ 建物面積:6,581㎡ 最大留置車両数:404両 留置線:18本
昭和41年(1966)4月1日に、大井町線(現在の田園都市線区間)の延長に伴い自由が丘検車区から検車区機能が鷺沼に移転され、鷺沼検車区発足した。昭和54年(1979)7月23日に鷺沼検車区が長津田に移転し、長津田検車区が発足した。
③長津田検車区跨線人道橋
長津田車庫跨線人道橋は、延長約196m・幅員約3mの跨線橋(現在は自転車・歩行者専用)で、町田市と東急と周辺住民らによる協議によって車両基地が開設された昭和54年(1979)に架橋された。以前はフェンス・舗装・街路灯といった上部設備は町田市が、橋梁本体は東急電鉄が管理していましたが、2020年に東急電鉄から町田市へ管理が移管された。
元々、農地が広がっていた場所の一部を使って建設された車両基地で、当初は幅1mの人道橋(自転車・歩行者専用橋)として計画されていたものの、農家を営む住民から成瀬とつくし野を農耕車両が行き来できる橋にするよう要望が出たことで幅3mの橋梁に計画変更されて架橋された(但し、橋南端のJR横浜線「東光寺踏切」は幅員2.1m)。 現在でも、農耕車両が通るために設けられた信号などの名残が存在している。
④なすな原遺跡
なすな原遺跡は、東京都町田市成瀬と神奈川県横浜市長津田町の都県境に跨る3つの台地上にあった。行政区画のうえでは、そのほとんどが東京都町田市に含まれる。地形的には、多摩丘陵南西端の裾域にあり、丘陵内部を流れる恩田川の南岸台地上に立地している。JR横浜線と東急田園都市線の交差する長津田駅の西方約1㎞の場所である。
遺跡は恩田川に支流の小川が合流する付近の南岸の標高50~52mの台地上に立地している。
ちなみに、概ね横浜線に沿った恩田川との間に挟まれた長津田駅の西方は、かつて東光寺村とされ、長津田と成瀬地域の道祖神などにその名が刻まれている。現在でも成瀬地区が「東光寺」で長津田地区にも「東向地」という小名がある。いずれも、かつてこの地にあった寺院の「東光寺」に由来するとされている。なすな原遺跡はこの東光寺(東向地)地区の南端部の横浜線沿いの地域である。
町田市成瀬と横浜市緑区長津田の接するこの辺りは「なすな原」と呼ばれて、昭和25年(1950)に縄文草創期の初め頃に作られたと見られる日本最古の土器『微隆起線文土器(びりゅうきせんもんどき)』が出土したことは有名である。
その後、東急電鉄長津田車庫建設にともなって、昭和51年(1976)から昭和55年(1980)にかけて遺跡の大規模な発掘調査が行われ、多くの住居跡や土器・耳飾り・石器などが大量に出土した。
元々この地は古来より「ナズナ原」と呼称され、ナズナ長者の屋敷跡といわれていた。これは昔むかしから大量に散布していた土器片を屋根瓦と誤認したことから生じた伝承と考えられる。
《時代》縄文時代草創期、古墳時代~奈良・平安時代発掘調査時期:昭和51年~55年(1976~1980)
⑤鎌倉道・神奈川道
鎌倉道・中ノ道と上ノ道を結ぶ道は、十日市場の泣坂付近で神奈川道と合流し、長津田宿で大山街道(矢倉沢往還:古代東海道)や当麻依知道と重なっている。その後、長津田東向地(昔は東光寺と呼んだ)を経て成瀬東光寺で、鎌倉道・上ノ道と合流している。
⑥崖山地蔵(原嶋源右衛門処刑所跡・供養碑)
原嶋の死刑執行の場所”で、“崖山”とは300年前に処刑場があった場所である。原嶋は江戸時代に東光寺の刑場を管理していた名主であった。
湿地帯であったこの土地周辺に排水などの新技術を取り入れて新田を開発し、金を生み出す土地に変えた凄い一族だったようである。
この土地(東光寺)は成瀬村と長津田村の境目に在ったため、次第に村民の間で境界争いが起こった。そこで幕府役人達の立ち会いのもとで境界を確定することになり、一旦解決し騒動は収まった。
原嶋氏は幕府の役人が境界を検地する際に、あらかじめ埋めておいた木炭を境界と証言した。その後、これが偽りであることが明らかになり一家もろとも打ち首の刑に処せられた。享保元年(1716)崖山と呼ばれるこの場所で村民の必死の嘆願にも拘らず名主原嶋は15人ほどの役人の手で打ち首一家断絶の厳しい処刑が行われた。これは原嶋一家を処刑することで一罰百戒の効果を狙ったという。
⑦恩田川
恩田川は町田市の西北部にある七国山周辺(滝の沢)を水源として、町田市内で蛇行を繰り返しながら東流し、横浜市域に入って青葉区と緑区の区境を流れた後、緑区と都筑区の区境(中山町・青砥町と佐江戸町が接する付近)で鶴見川本流に合流する(鶴見川河口から19.7kmのところ)。なお、恩田川は全長13.1kmである。恩田川周辺はベルト状に今なお水田が残り、昔の面影を残している。
むかし恩田川は暴れ川で台風の襲来のたびに洪水を引き起こしていた。近年川筋の変更や護岸工事、治水対策等の3度の河川改良工事(昭和44年完成、昭和53年完成、平成6年完成)を経て大幅に改善され、最近では洪水の恐れはなくなっている。
成瀬クリーンセンター付近の町田市南成瀬と緑区長津田の境界が恩田川と接した所からの区境は恩田川となる。この所からこどもの国線、田園都市線、国道246号線、環状4号線、東名高速道路などとの交差部を経て、十日市場の八十橋に至る間である。この間は、緑区と青葉区の境が恩田川となっている。
ちなみに、この間の緑区側は「長津田」「いぶき野(元・下長津田)」「十日市場町」であり、青葉区側は、「恩田町」「田奈町」「しらとり台」「さつきが丘」である。
恩田川は、浅山橋から梅田川の合流地点辺りは蛇行が激しかった.
⑧緑区最北端
柳橋・堀之内橋を経て、こどもの国線の架橋の下を抜けて少し歩くと日影橋がある。ここで恩田川に奈良川が合流している。この日影橋の手前が緑区最北端の地である。
なお、この日影橋から田園都市線の田奈駅近くの田奈橋付近までは、恩田川の右岸はかなり高い崖になっている。かつて、恩田川の蛇行改良工事前は、恩田川を越えてこの長津田寄りの崖っぷちまでが、恩田村(現・青葉区)の土地であった。
また、JA横浜・田奈支店近くの「浅山橋」は、元々は恩田の人が、川向こうの田畑に行くために架けた橋で、新編武蔵風土記稿には「作場道(さくばみち)」と記されている。
ちなみに、この辺りまで縄文時代(6000年前)に海が入り込んでいた。
⑨ハマッ子直売所「四季菜館」
「四季菜館」の建物は、昭和12年に建築され、米や麦を備蓄し、田奈の農家とともにあった蔵である。曳家(ひきや)され、今と昔が調和する”蔵直売所”に生まれ変わった。
田奈産の自慢の根菜類をはじめ、産地直送の新鮮な野菜、果物などが所狭ましと直売所に並んでいる。四季折々の花もある。苗もの、切り花、鉢ものとたくさんの種類が並んでいる。また、惣菜、菓子、漬物、ジャムなど、野菜や果物のベテラン農家が手作りしている。
⑩長津田町1番地
長津田町1番地は、かつての大山街道と恩田川の交差する付近であった。現在の国道246号線と恩田川が交差する付近で、恩田川の蛇行改修により恩田川の川底となっている。現在、この辺りは町名が変更されていぶき野である。
ちなみに、長津田町で最も番地の数値の多いのは5814番地で、緑区最西端の長津田町字西の原である(国道246号線の町田辻交差点付近)。
⑪恩田茶屋(渡辺崋山が休んで画いた恩田茶屋)大山道と神奈川道の交わる角に一軒のかけ茶屋があった。渡辺崋山と梧庵は旅に疲れた身体を休めに店に入って、お茶をご馳走になり、柿やゆで栗を買い求めて食べた。40文の代金を払ってから、茶屋番をしている女とその背中の赤子を画いた(游相日記)。茶屋の子孫である土志田家は、15年ほど前までこの地に住んでいたが、神奈川道(恩田川北岸)の拡張のために引っ越した。現在、ここより東方のしらとり川に近い所に住んでいる。大正期に横浜線沿線の名所旧蹟を紹介する案内誌として、大正2年(1913)に出版された『横濱鉄道沿線 探勝遊覧之友』に「恩田高砂教会名勝図」が掲載されている。
かつて、恩田茶屋のあった所とその東側の神鳥前川神社(しとどまえかわじんじゃ)の間にあった神道系の教会である。昭和の中頃に火災で焼失したが再建されなかった。しかし、現在も神奈川県の宗教法人名簿には「丸山教高砂教会」として登録されている。
明治19年(1886)登戸村に丸山教本庁がおかれた。
丸山教は、明治3年(1870)登戸村の農民であった伊藤六郎兵衛を教祖として、富士講の一派である丸山講を背景として興った世直し的性格の強い新興宗教であった。
幕末から明治維新期には、その政治や社会の変革に伴って全国的に新たな民衆宗教が展開した。例えば中山みきの「天理教」、黒住宗忠の「黒住教」、あるいは金光大神の「金光教」などである。丸山教もこれらと同様、やはり社会不安の中における民衆救済の教義にたったものであった。
一方では、当時の報徳社運動と連携して、勤勉・倹約を強調する信仰へと変化をしていった。現在、丸山教は一時の信者数ほどではないが、その活動を続けている。
《補足》恩田には富士講が二つもある。この丸山教との関係はどうだったのでしょうか。
ちなみに、川崎市生田にあった元帝国陸軍登戸研究所(現・明治大学生田キャンパス)内にある神社は、この丸山教に属していた。
⑬神鳥前川神社(しとどまえかわじんじゃ)
由緒によると、神鳥前川神社は、文治3年(1187)5月、武蔵国桝杉城主・稲毛三郎重成により創建された。重成は敬神の念篤く、所領稲毛に稲荷神社を健立すると共に霊的な夢のお告げを受け、武神日本武尊(ヤマトタケルノミコト)及びその妃・弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)を御祭神としてこの地に祠を建て白鳥前川神社と名づけたと言い伝えられている。
白鳥というのは御祭神・日本武尊が伊勢国煩野(ノボノ)にて逝去の際、神霊化され白鳥になられたという故事により、また前川とは神域の真下を鶴見川支流の恩田川が流れおり、弟橘比売命の入水の故事に重ね合わせて名づけられたものという。
それがいつの頃よりか白鳥が転じて神鳥と書くようになり、これを「シトド」又は「シトトリ」と読むようになり、今日に至っている。
天正10年(1582)の火災により社殿が焼失し、当時この地を治めていた北条三郎(後の上杉景虎=謙信の養子)が社殿を新しく建立寄進し、かつ毎年春秋の上納金より三貫文を社料として免租するという内容の古文書が残されている。また、現在八坂神社、 稲荷神社として祀られている旧本殿はその後再建されたものであり、拝殿及び覆殿は文化九年(1812)当時 の地頭岡本玄治法眼を始め橋本、船橋宋迪、朝岡・星合鍋五郎等の寄進で再建せしものであると棟札に記されている。
《補足》火事があったのが天正10年だとすると、その3年前の天正7年(1579)に起きた御館(おたて)の乱で景虎は亡くなっている。死んだ人間が寄進できるわけがない。
⑭岩川及び長津田の地名の由来
《岩川》岩川は、長津田の南端の「台」「岡部谷戸」「辻」付近を水源とし、北流して下長津田(い
ぶき野)で恩田川に合流している(準用河川区間は1.98km)。合流点は、恩田川が鶴見川に合流
するところから4.7kmの地点である。ちなみに、河川改修前の恩田川は、この辺りの蛇行が激し
く、神鳥前川神社の真下付近を流れていた。
《長津田の地名の由来》「長津田」という地名は、岩川を中心に描かれた地形とそれに沿った水辺
の風景によると言われている。つまり、この一帯が両側を山や丘に囲まれた長い小川(=津:岩川)
の通る田圃であったことから、『長津田』と言われるようになったという説である
「長津田」の読みとして「ながつた」と「ながつだ」があった。「長津田」は「長い湿田」(「長」+「津田」)
を指す谷津田(しかし、当地では谷津をさして「谷戸;やと」という)によるとの説があり、これを元
にすると「ながつだ」が正しいと思われる。
一方で、「長津」+「田」で構成されていると考えた場合、連濁が起こることは考えられず、「ながつ
た」と発音するのが正しいとの見解がある。
国鉄/JR長津田駅では1980年代末期以前は「ながつだ」と表記され、東急長津田駅では開業以
来一貫して「ながつた」と表記されている。また、横浜市発行の『横浜の町名』では「ながつた」と表
されている。
⑮北門堰(ぼっかどせき)
現在の恩田川に注ぐ岩川と山谷川の間のほぼ中間付近に川戸橋がある。この橋の少し上流側で恩田寄り(北側)に北門堰があった(右の写真)。この堰は恩田川の改修の際に取り壊されて、現在は存在していない。川の改修時に、灌漑用水はポンプアップに切り替えている。
北門堰は、江戸時代から存在していたことが確認されている。
恩田村の地内に堰を築き、ここから取水して用水掘りにより十日市場村を通り榎下(新治)・久保(三保)・台(台村)・寺山・中山・猿山(上山、白山)の村々まで、延長2里(約8㎞)にわたって灌漑用水として利用されていた。堰に隣接する長津田には水利権が無かった。
この堰に関しては、十日市場村が総括し、毎年の堰普請には、各村々より人足や資材を供出し、その入用については、各村の石高により割り付けられていた。
堰は灌漑が必要な時期になると、大量の木や草、土砂を使って構築したようである。
隣接した長津田村には水利権が無かった中で、長津田村の木を伐採したり、土を掘って使ったために、頻繁に紛争が起きて、訴訟問題となっている。
寛文元年(1661)、享保元年(1716)、宝暦8年(1756)年に起きた紛争が記録されている。
⑯北門古墳(ぼっかどこふん)
北門古墳群は緑区恩田川南岸にある。周溝を巡らした円墳である1号墳は平成16年に発掘調査が行われ、古墳の周溝部からは埴輪の破片、石室内部からは鉄鏃(てつぞく)を中心とした鉄器類が出土した。埴輪は、当時の埴輪生産地として知られる埼玉県鴻巣市の生出塚(おいねづか)窯製であり、現在確認されているところでは最南部の分布例である。 古墳時代後期 6世紀末。
備考;横浜北部方面地域での埴輪の出土は前例がなく初めてだといい、さらに女子像の埴輪の出土
は、鶴見川流域で唯一の事例ということになる。
⑰中村学舎発祥の地(十日市場橋梁付近) (現・山下小学校の礎となった学舎)
明治6年(1873)に開設された中村学舎の場所は、現在の横浜線と環状四号線の交わる付近であった。十日市場村字中村にあった磯村源右衛門の家を借りて学舎を開設し、地名の「中村」を採って『中村学舎』と称した。ちなみに、明治7年(1874)2月の生徒数は27人で、就学率は34%であった。中村学舎開設時の教師は、磯村治三郎(本名:今泉治三郎)と言い、元四国高松藩・松平家の武士で25歳であった。のちに十日市場の犬塚家に養子として迎えられ、時を経て西八朔に転居し、明治35年(1902)3月まで奉職していたが55歳で亡くなった。ちなみに、犬塚家は彦根藩・井伊家の江戸家老を務めた家柄であった。
《山下小学校の沿革》
明治 6年7月 十日市場村と西八朔村を学区とした『中村学舎』が開設された。
学舎の位置は現在の環状4号線と横浜線の交差部付近であった。
明治10年頃 校舎が西八朔村に移転(観照院)した。
明治17年7月 校舎を北八朔山下の民家に移転、十日市場を除き青砥、小山、西八朔、北八朔を学区に変更、名前も「中村小学校」と改称した。
明治25年4月 神奈川県都筑郡中里村立尋常中村小学校と改称された。
この時の学区の西八朔、北八朔、小山と青砥は、明治22年(1889)から昭和14年(1939)に横浜市へ編入されるまでの間、都筑郡中里村に属していた。
明治27年8月 北八朔町1769に新校舎落成(現在の山下地域交流センターの所)
以下略す。