①日 時 5月25日(土) 緑区役所前広場 9時集合
③コース概略
①緑区役所⇒②四季の森プロムナード⇒③四季の森公園⇒④里山ガーデン広場⇒⑤梅田谷戸水路橋⇒⑥大山道道標(緑区遺産)⇒⑦三保市民の森⇒⇒⑧新治市民の森⇒⑨奥津邸⇒⑩新治里山公園交流センターで12時30分頃解散
①スタートは緑区役所前広場
区役所入口のシンボルマークがAコースそのものを示しています。
4つの大きな公園を回りますが、この目的は緑豊かな横浜を次世代に継承するために、多くの団体や市民で繋ぐ「横浜みどりアップ計画」(樹林地を守る、農地を守る、緑を作る)を進めていている森・農・みどりや花のスポットをご案内します。
緑区の緑被率は40.6%で市内1位、緑区の緑化率は緑区の木はカエデ、緑区の花はシランのように、緑を大切にする市民により支えられています。
②四季の森公園プロムナード
この遊歩道の下には四季の森から流れる水路があります。
遊歩道は四季の森の主要部が開園される前年平成元年に県の事業の一環として竣工し、全長約700mの沿道には150本の高木の植樹がされて完成しました。
現在沿道には、5~7月に開花するアジサイ1,000株が開園から24年後に中山商店街によって寄贈植樹され、翌年第1回のアジサイまつりが行われました。6年後から地元寺山町自治会に管理が受け継がれています。初夏のアジサイロードは以降も四季の森に行き交う人々を楽しませています。
③県立四季の森公園
昭和40年代は緑区の殆どが未開発地帯で森林、原野、谷戸の沼地が残されていました。
この四季の森も,県の資料によれば昭和47年に都市整備の用地として取得しましたが、市街地に残された貴重な樹林地であったことから自然の保全と「みどりの拠点」として公園化構想が昭和59年(1984)に決定され、全面積45.3Ha(1000×453㎡)の内、昭和63年(1988)一部開園から、平成2年に36Haが開園し、平成9年に東側の緑地、平成17年北西の森の完成に至るまで17年を要しました。
開園後の年間平均利用者数は70万人前後(管理者側の統計)と公表されています。
豊かな緑を誇る四季の森公園も、県所有地以外数名の民間の山林提供の協力を得て運営されていますが、公園管理の問題点はこれら善意の協力者を無視して集散範囲の広い公園では、利用者のマナーの悪いことや無責任な使われ方などへの対処であり、その方法として地元主体の民間組織である「愛護会」が普及していますが、四季の森公園にもボランテイアの組織があります。
これらの問題の解決は、尽きるところ利用者の自己責任の自覚にあるといわれます。
*公園内の見所
公園内には,里山の自然を作る湿原や池、雑木林などが残されていますが、これにより利用者のだれもが豊かな自然を体感して「ふるさと」を想う心象風景を味わい、楽しむ事が出来ると言われます。
◇池の大賀蓮は昭和26年(1951)千葉県の検見川の落合遺跡から2,000年以上前の蓮の実3粒が発見され、翌年ピンク色の大輪が咲き,発見者の大賀一郎植物学講師(後に東大・理学博士)に因み「大賀蓮」と命名され、世界に広がりました。
◇カワセミ 水辺に生息する小鳥、宝石のヒスイはこの鳥の羽の色に由来して名付けられました。この美しい外見から「渓流の宝石」と呼ばれます。
◇菖蒲園 菖蒲は5~7月に水辺に咲き、アヤメは5月に畑や草原など乾燥した場所に咲きます。菖蒲は葉に艶があり香りが強く、花は淡い黄緑色の楕円形です。
◇上池の蛍 源氏蛍 幼虫が淡水中に棲みカワニナを捕食します。四季の森では6月中旬、「ほたるの夕べ」のイベントが開かれます。
その他四季の森イベントでは、自然観察会は通年事業とされ、4月下旬の「四季の森公園まつり」は緑区内の自治会など全区民参加形で盛大に行われます。また10月には「区民祭り」が当地で行われます。
◇西口広場の山桜
四季の森の西口広場に出て、小休憩ののち緑区と旭区の区境を歩きます。進行方向右側が緑区寺山町、左は旭区上白根町です。
*市立橫浜動物の森公園
動物の森公園の全体面積は103,3Haで緑区と旭区に位置し動物園53.3Haと植物園50Haを併合しています。歴史的には昭和59年に都市計画が決定されて橫浜ズーラシア動物園は平成11年(1999)一部開園後、平成27年(2015)に全面開園しました。
植物園は平成29年(2017)より20Haが「里山ガーデン」として春秋の期間限定で開園されていますが、その他の土地は現在も整備中と言われます。
四季の森から動物の森、三保・新治市民の森に連なる広大な緑地地域は、円海山や大丸山を中心とした市内南部の「南の山」に対し「北の山」と呼ばれ,豊かな緑(区)の中核を成しています。
④里山ガーデン東入口
今回Aコースは、植物公園予定地の東側より園内に入り里山風景を楽しみながら「里山ガーデン」に向います。
林道途中で緑区と旭区の境界線を跨ぎます。
隣接地には樹木の空間を遊ぶフオーレスト・アドベンチャーやマウンテンバイクで遊ぶトレイル・アドベンチヤーの施設があります。
平成29年(2017)「全国都市緑化よこはまフエア」の会場として、里山ガーデンに3月25日から
6月4日まで県内最大の大花壇が作られ、期間限定で開園されました。
期間中の季節の花々は約100種
20万本が美しく咲き誇る大花壇は好評で、同年には春季開催に続き9月22日から10月22日まで秋の公開が行われ、参観者も春約15万人,秋約8万人の愛好者が訪れました。
この大花壇は春秋の名物行事となっていますが、林文子前市長の意向では、2026年上瀬谷通信施設跡地での開催誘致を目指している国際園芸博覧会まで里山ガーデンを継続する方針と聞いています。
*ズーラシア動物園
ズーラシア動物園は世界中の野生動物を展示・飼育するほか絶滅寸前の希少動物の復帰や繁殖をさせている国内最大級の動物園です。
事業所の所在地は旭区上白根町にあります。動物園の名称は平成8年(1996)市民に公募し「ズーラシア」に決定しました。ズーラシアの由来は、動物のZOOにアジアとヨーロッパの総称であるユーラシア大陸の合成と言われます。
平成11年(1999)4月、28.9Haの場所に59種315点の動物を展示して開園、2001年には園内の人気動物オカピの繁殖に成功、雌の子どもを一般公開し、2002年5月に累計入園者数500万人、2011年9月1500万人達成。更に平成25年(2013)肉食や草食など多種の動物が見られるアフリカのサバンナが一部公開され、平成27年に全面公開となりました。
現在の動物園展示総数は約100種、750匹を公開していると言われます。
⑤梅田谷戸水路橋
ここは緑区三保町に架かる,長さ228m,高さ31mの「梅田谷戸水路橋」です。
道志川から野毛山配水池まで43キロの内、この水路橋と三保市民の森を越えた旭区に架かる「大貫谷戸水路橋・長さ306m、高さ23m」は川井浄水場の
施設になっています。橋の工法は「トレッスル橋」(末広がりに組まれた橋脚の縦部分を多数の梁で橋桁を支える橋)で、外国の鉄道橋などに多く見られます。
この水路橋は、明治20年(1887)の架橋から現在まで136年を経ていますが,昭和57年(1982)に耐震基準に合わせた補強工事と、平成20年(2008)に全面の塗装工事が行われました。
⑥大山道の道標(緑区遺産NO18・2017年登録)
ここは緑区三保町です。十日市場から念珠坂を経て鶴ヶ峰に至る古道・鎌倉道がありますが、江戸時代には一世を風靡した大山詣での街道に横断する近道としての「道しるべ」がここに建てられていました。
碑文は嘉永2年(1849)梅田講中によって建てられた庚申塔であり、左「大山みち」右「さくばみち」(農道)と刻まれています。
緑区遺産の登録条件には管理者が必須ですが、ここは三保市民の森愛護会が周辺の草刈り清掃の管理を行っています。
⑦三保市民の森
昭和47年(1972)11月開園、昨年2022年開園50周年を行いました。
面積は40Ha,市民からの借地部分も多く、全体は横浜市が管理をしています。
森の中は杉や檜が多く,梅田川の源流もあり湿地部分にはシダが生育し、日本全体で630種類の内約100種が生息していると言われます。
山林には古くから山道があり、現在山を管理する「三保市民の森愛護会」によって3ルートのプロムナードが開かれて園路の巡回や草刈り・清掃が行われ、愛好者の散策を手助けしています。園内に設けられた憩いの場所では春の桜見物が賑わい、野生動物のアライグマやタヌキも共存しています.
*東洋英和女学院大学
明治17年(1884)麻布鳥居坂・現六本木にカナダ、メソジスト教会により創設されたプロテスタント系女子大学。人間形成と人格形成を重んじ敬神・奉仕の精神をモットーに女子の英才教育を目指しています。短大、大学、大学院があり,この内当地の短期大学は昭和61年(1986)開校、平成元年に大学を開設しました。
学部に人間科学部と国際社会学部があります。卒業生就職率98%、有名卒業生に村岡花子。赤毛のアン他翻訳多数、2014年NHKでドラマ化されました。
当横浜の大学開校時の昭和62年、工事中の敷地より遺跡が発見され,調査の結果、縄文中期から後期初頭6000~3000年前の竪穴住居跡100戸以上の大集落が発掘されました。
「西の谷大谷遺跡」と命名され相武考古学研究所が調査発表をしました。建設工事の都合上跡地は建造物の地下になりましたが、発掘された土器など殆どが校内の資料室に保管されています。
広い構内にはスポーツ施設の他、梅田川源流の湧き水も見られます。また、生涯学習センターでは、近くの住民が受講できる市民講座が多く開催されています。
*横浜創英大学
昭和15年(1940)財団法人堀井学園創設に端を発し,昭和61年(1986)4月横浜国際女学院翠陵高等学校が開校され、同中学校、横浜創英短期大学に続き平成12年(2000)4月横浜創英大学、平成16年横浜創英大学院が開校されました。
学長の挨拶によれば、創英大学では看護学部とこども教育学部があり、「人のために頑張れる人」「考えて行動できる人」が教育方針とされています。
住所が三保町1番地にあります。
*霧が丘
昭和40年代に日本住宅公団により、殆どが十日市場の山林原野を開発され、2万人が居住する新しい町が誕生しました。
近年は少子高齢化により、当初からの一部小学校も閉鎖され地区センターや地域活動の拠点に変わりましたが,この3階部分にはインドインターナル・スクール(本校・東京江東区)の横浜分校が2004年開校され、幼稚園から高校生まで日本・インド・パキスタンの生徒300人が通学しています。
生徒が学問のトップとなり人生を希望と幸福に満ちたものにすることを目指しコミ二ユケーション、コラボレーション、批判的思考、創造的思考の21世紀のスキルを使えるように教育されます。
大学進学も日本の有名校の外、アメリカ、イギリス、インド、カナダなど海外への進学も多く、この関係家族約800人が近在に居住する町になっています。
⑧新治市民の森
昭和40年代の宅地開発が進む中、緑区新治町と三保町に架けて残された68Haの市北部「最大の森」(奇跡の森とも言われます)が、平成12年(2000)3月「新治市民の森」として開園されました。
森の多くが市民との借地契約によりますが、森には里山と谷戸やクヌギ、コナラ、杉、檜、竹林等横浜の原風景が残されています。
森の管理は市と市民の愛護会によって支えられ,森の中は5コース全5、7キロに及ぶ遊歩道が作られ,鎌立・検見坂など各所に昔からの地名が付けられています。
*旭谷戸・蛍(新治里山公園内)
新治市民の森北部に広がる谷戸(森の谷間にあって水源があり行き止まりの地形)があります。面積が広く日指も良いのでこの名称が付き、古くから水田、畑などの耕作が行われています。
森からの湧き水が梅田川の源流にもなっていますが、そこにはタニシやカワニナが棲み,5月~6月には梅田川と支流で蛍の風物詩が楽しめます。
*市民活動支援団体・新治谷戸田を守る会
横浜の原風景とも呼ばれる「谷戸」の一番奥は 梅田川の源流でもあり、さまざまな生きものも暮らしています。この谷戸田を守る会は、長年谷戸田の保全に取り組んで、昔ながらの種蒔きから米の収穫まで年八十八回の作業を市民有志が毎月数回出て行い、立派なお米や餅米を収穫しています
⑨旧奧津邸
平成13年(2001)奧津家より遺産の寄贈が横浜市に行われ,横浜市はこれを新治市民の森の中核に据え管理活用する事になりました。
奥津邸は古くからお大尽と呼ばれた村一番の資産家で、寄贈された遺産は、江戸後期建築の長屋門、平成の無垢建築の母屋や周囲の屋敷、及び多くの森林を含みます。この日常の管理は市から委託された業者が,市民へ四季
折々のイベントを開催して,華やかに維持されています。
⑩「新治里山公園」の誕生と交流センター・つどいの家の設置
広大な新治市民の森の内、平成26年12月人里部分の旧奥津邸周辺と田畑があった旭谷戸一帯15.3Haが「新治里山公園」として誕生しました。
旧奥津邸は人・地域・自然の縁を育てる「にいはる里山交流センター」となり、広場には市場も開く「つどいの家」や管理事務所が設置されました。
「NPO法人・新治里山「わ」を広げる会」が指定管理者となり新治里山公園運営プロジェクト、新治谷戸田を守る会(前述)、新治市民の会愛護会(前述)、梅田川水辺の楽校協議会、一本橋メダカひろば水辺愛護会、新治恵みの里発展会で新治里山憲章を作り活動しています。また、近くの子どもたちの「三保ねんじゅ坂プレイパーク」の拠点にもなっています。
日 時:令和6年10月5日(土)実施
《ウオーキングコース》
①長津田駅★→長津田宿→②大林寺☆(※大林晩鐘)→③下宿常夜灯(※下宿晴嵐)→④片町地蔵(旧大山道と神奈川道分岐の道標◇)→⑤岩川堰◇→⑥長津田みなみ台公園☆(※住撰夕照)→⑦長津田みなみ台緑道→⑧玄海田公園★(※長月飛蛍)→⑨天王社(※天王鶯林)→⑩福泉寺★→⑪王子神社(※王子秋月)→⑫長坂(※長坂夜雨)→⑬上宿常夜灯→⑭大石神社 (※大石観桜)→⑮御野立跡(※御野立落雁)→①長津田駅・解散
(※:長津田十景、◇:緑区遺産、★☆:トイレ)
-長津田とは-
長津田には、「ものがたり」の描ける歴史と文化が多々あります。 大山道(矢倉沢往還)、神奈川道、鎌倉道、当麻道などの古道が、ちょうど長津田の中央部「長津田宿」で合流し、かつ矢倉沢往還の足柄山から二子玉川付近までは、古代東海道としても機能していました。
また、大石神社の祭神に関わる大石伝説やどんと焼きに因んだ一つ目小僧伝説などもあります。そして、長津田領主・岡野家の生い立ちのものがたり、そのドラマチックさも百聞に値します。加えて、長津田十景という名勝もあり、そこに培われた歴史や文化も見逃せません。さらに、天才絵師・葛飾北斎が長津田上宿の風景を浮世絵にも描いています。
長津田の地名の由来は定かでなく、幾つかの説がありますが、“かつてこの一帯が長い小川(=津:岩川とその支流域が谷戸で深く入り込む)が通る田圃であったために「長津田」となった”とも言われています。ちなみに、岩川は長津田のほぼ中央を流れ、南の端に源を発し北流して北の端の下長津田(いぶき野)で恩田川に合流しています。
ぜひこの機会に、長津田の街歩きを通して、「ものがたり」の描ける歴史と文化を堪能してください。
大山道
大山道(大山街道:矢倉沢往還)は、江戸の赤坂御門を起点として、青山、渋谷、三軒茶屋より瀬田を経て、多摩川を二子で渡り、多摩丘陵、相模野の中央部を横切り、足柄峠手前の矢倉沢関所に至る脇街道である。
江戸時代中期以後、江戸庶民の大山詣りの道として盛んに利用され、矢倉沢往還は「大山街道」、「大山道」と呼ばれるようになった。この他に、大山へ向かう道を総称して「大山道」と呼んでいた。又、タバコ、鮎、生糸、炭など相模地方の産物を江戸に送る道でもあり、沿道には人馬継ぎ立場として伊勢原、厚木、国分、下鶴間、長津田、荏田、溝口、二子などがあった。
東海道と甲州街道の中間に位置するこの街道は西に向かっては厚木街道、東に向かっては青山街道とも呼ばれていた。現在でも、当時の大山道を偲ぶものとして「道標」がある。「道標」は当時の人たちが大山詣りの際、道に迷わないように建てた道路標識である(備考1参照:4頁)。ぜひ折をみて大山道を歩いていただき、この道に点在する昔の「道標」を目にしたら、ふと立ち止まり、往時の旅に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
【大山道の経緯と役割】
(1)古代東海道として
大山道(矢倉沢往還)の多摩川付近から足柄峠までは、律令時代に官道として整備された古代東海道の道筋を概ね通っていたと言われている。
(2)江戸時代の脇往還として(裏街道;東海道の裏道)
徳川幕府は、大山道が関西より箱根、足柄の天下険を超え、江戸へ入る最短直線路であったため、この道を軍事上重要視していた。人馬継ぎ立場が置かれ、脇往還の一つとしての役割を担っていた。
(3)物資の輸送路として
大山道は、江戸方面からの物資と、駿河・甲斐・相模などからの物資をそれぞれ運搬する交通路として利用され、静岡のお茶、秦野のタバコ、相模川のアユ、多摩丘陵の薪や木炭など、沿道の特産物もこの道を通って江戸に送られていた。
(4)信仰の道として(大山詣で・富士詣で)
江戸時代中期より、大山道は江戸庶民の大山詣での道として盛んに利用されるようになり、この頃から「大山道」「大山街道」と呼ばれるようになった。大山は、山岳信仰の山(阿夫利神社)、雨乞いの山としての信仰があり、関東一円の人々は五穀豊穣、商売繁盛の神として崇めた。
(5)幕末・幻と消えた東海道への転換計画
文久2年(1862)、薩摩の島津久光の行列を横切ったイギリス人が殺傷された生麦事件の発生以来、外国人への殺傷事件が相次いだ。そのため、参勤交代路である東海道の一部を変更し、川崎、横浜付近を避けるという計画案が、幕府の道中奉行より発表された。この案は東海道の品川から平塚の間を大山道に付け替えるものであった。この計画は実現には至らなかったが、明治維新の到来がもうすこし遅かったら、大山道を“下ニィ・・・下ニィ”の大名行列が通っていたかも知れません。
備考1;現在、大山道を歩く「道標」の代わりとして、国土交通省川崎国道事務所がインターネットのホームページで、大山道の見どころマップを公開している。ご利用ください。
長津田十景と景勝地の呼称のふるさと
「長津田十景」は、ひとつの選定過程として、元々「長津田八景」を選ぶつもりが、審議過程で絞りきれずに二つ増えてしまったという経緯がある。裏を返せば、それだけ長津田は風景に恵まれた環境にあったと言えるでしょう(「長津田歴史探訪マップ」参照)。
日本国内には、「近江八景」「金沢八景」を筆頭格として雨後の竹の子のごとく、「○○八景」という景勝地がある。この「八景」のルーツは中国の湖南省洞庭湖の南・瀟湘地域にある。瀟湘(しょうしょう)とは、中国湖南省の長江中流で湘江とその支流・瀟水が合流して洞庭湖に注ぎ込む地域をいい、広くは洞庭湖とその南の長江支流の流域を指す。この景勝地に設けられた八景(瀟湘八景)は水墨山水画の画題や詩題として親しまれており、四季・四時に応じた八つの印象的な風景を選び取ったものである。
なお、「湘南」という地名も「瀟湘」に由来し、かつ相模国の南に位置することから名付けられたと言われている。つまり、「瀟湘」の「湘」を冠して、「湘南」とは相模国(「相」)の南に位置する風光明媚な水辺(「氵」:さんずい)の地域を表している。
景勝地のふるさと 瀟湘八景の風景
瀟湘八景の風景の概要は次の通りです。
平沙落雁(へいさらくがん) 秋の雁が鍵になって干潟に舞い降りてくる風景
遠浦帰帆(おんぽきはん) 帆掛け船が夕暮れに遠方より戻ってくる風景
山師青蘭(三觜青巒) 山里が山霞に煙って香住見える風景
江天暮雪(こうてんぼせつ) 日暮れの河の上に舞い降る雪の風景
洞庭秋月(どうていしゅうげつ) 洞庭湖の上にさえ渡る秋の月
瀟湘夜雨(しょうしょうやう) 瀟湘の上に夜もの寂しく降る雨の風景
煙寺晩鐘(えんじばんしょう) 夕霧に煙る遠くの寺より響いてくる晩の鐘の音
漁村夕照(ぎょそんせきしょう) 夕焼けの中のうら寂しい漁村の風景
各地にある「八景シリーズ」の景勝地の呼称に共通することは、呼称の末尾の二文字が瀟湘八景から借用しているということである。すなわち、「夜雨」「晩鐘」「帰帆」「晴嵐」「秋月」「落雁」「夕照」「暮雪」である。従 って、この風景を忠実に再現するには、海・湖沼・大きな河などに面していることが絶対条件となります。さらに、海・湖沼・大きな河などを背景とした山水の風景が源流といえましょう。
①長津田駅
明治41年(1908)9月23日 開業
昭和41年(1966)4月 1日 東急田園都市線乗り入れ
昭和42年(1967)4月28日 こどもの国線開業(現在は横浜高速鉄道所管)
JR長津田駅は明治41年の横浜鉄道開通時からの駅で、元々この土地は大林寺の末寺の隋流院の寺領(墓地)であった。時の田奈村村長・黒滝時蔵(三多摩の壮士といわれていた)や井上忠太郎或いは秋元九兵衛などが、当所への駅の招致に奔走したといわれている。
横浜線は元々絹の道であり、近隣の村々から繭玉が駅前の乾繭倉庫に集められ、一旦八王子或いは信州の岡谷近辺に運ばれて絹織物にされた後、再び横浜線で横浜港に送られて海外に輸出された。
〇長津田宿(7頁の長津田宿配置図「長津田宿のおもかげ」参照)
長津田宿は、矢倉沢往還(大山街道、青山通り大山道)の宿場(継立場)の一つである。文禄の頃までに長津田村に宿場ができており、文禄3年(1594)の長津田村検地帳には宿分畑の記載がある。寛文9年(1669)に継立村に指定された。長津田宿は、江戸・日本橋から9里(35km)で、荏田から2里(8㎞)、鶴間へ1里(4㎞)の中間の宿場であった。その多くは旅人相手の商売を営み、50~60軒の家が並び、旅籠屋(はたごや:宿屋)が6~7軒もあった。その他に、飯屋・酒屋・甘酒屋・もち屋・せんべい屋などの店、駕籠屋(かごや)や馬方などの業者もあった。旅籠屋には、柳屋・鈴木屋・本旅・中旅・松本・河内屋(かわちや)などがあり、そのうち柳屋は問屋(といや:旅人または貨物の運送を扱い人馬を供給する)をつとめていた。問屋柳屋では人馬の供給をしたが、長津田だけの人馬では間に合わず、お上に願い出て他の村へ助郷の役を命じてもらった。
その村は七か村あり、川井村・久保村・榎下村・恩田村・十日市場村・小山村・八朔村で、長津田村を入れて「長津田かすみ」と言っていた。
江戸時代・天保の頃、葛飾北斎が長津田宿の絵を描き、さらに渡辺崋山が江戸から厚木までを旅して『游相日記』に著した。崋山は長津田を通ったとき、萬屋(よろずや)に寄り、画家であり・俳人でもある萬屋藤七(俳号:兎来)の家を訪ねたときの様子を細かに描いている。
江戸時代のひところは栄えた長津田も、やがて鉄道や自動車の発達とともに、旅人相手の商売は成り立たなくなり、転業・廃業する家が相次いだ。現在、大山街道沿いの老舗の流れをくむ店は、僅か一軒だけとなった(屋号豆腐屋:現・河原菓子店)。
〇長津田の大火(緑区で最も広範囲の火災)
下宿周辺は、昭和28年(1953)4月29日の強い南風の中で火災が発生し、多くの家々を焼失した。
②大林寺(大林晩鐘:長津田十景)
山号を慈雲山といい曹洞宗に属し、釈迦如来を本尊とする。かつては長津田領主・岡野家の菩提寺であった(御朱印地15石を受けていた:緑区随一)。
平成16年(2004)から総工費約12億円をかけて、お寺のほぼ全てを建て替えた。平成19年(2007)に建物部分の建て替えを終え、引き続いて庭園や塀等の整備を経て平成20年(2008)11月に落慶式が盛大に実施された。
寺の縁起によると元亀元年(1570)初代領主・岡野房恒の父、板部岡江雪斎の開基で開山は愛甲郡三田村(今の厚木市)の清源院五世、英顔麟哲和尚となっている。
一方、新編武蔵風土記稿によると、初代の領主の房恒が父の菩提のために建てたもので、年代は定かでないがおそらく天正か文禄のころではないかと言っている。
なお、大林寺沿革記には、今から460年前頃に寺が当村住撰山麓にあり、「当時該所人跡稀に野猪群り為し蠎蛇(うわばみ)蟠踞し猛獣の咆哮谿間相答ふる寒郷なれば寺内自ら荒廃を極め老屋廃橡以て憫む可しとなす」と記述されている。
a)殿様墓:領主岡野家代々の墓
本堂の裏にある墓地のほぼ中央、垣根に囲まれて領主岡野家累代の墓碑がある。宝篋印塔(ほうきょういんとう)、角塔、自然石などさまざまで堂々たる墓石が並んでいる。ここには岡野家初代領主の房恒の父・江雪から十代の成政(しげまさ)までの墓石がある。この岡野家の墓は横浜北部域で殿様墓として随一であるという。
b)大板碑:地上の高さが140cm、幅は下部の一番広いところで53cm もあり、板碑として横浜市内最大のものである。中央に弥陀の種子(しゅじ=梵字)が大きく彫ってあり、その下に嘉元元年(1303)7月15日とあり、さらにその両側に、「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」と二行ずつ彫ってある。
c)兎来の墓、長津田の教育の祖・関根範十郎の墓、引田天功の墓などもある。
d)梵 鐘:現在の鐘楼は昭和40年(1965)に再興された。
大鐘は口径が1m強で高さが1.6m、重量が450貫(1.7トン)である。
富山県高岡市老子製作所(梵鐘製作日本一)で鋳造された。大林寺の梵鐘は定時に鐘を鳴らして時を告げており、夕霞に包まれた鐘の音をイメージするものとして、「大林晩鐘(だいりんばんしょう)」として長津田十景の一つに指定されている。
○長津田領主・岡野家の由来(岡野家入府432周年)
岡野家は、長津田を本貫として、都筑郡栗木村(現・川崎市麻生区栗木)、下総国香取郡、駿河国富士郡にて合わせて1500石を知行していた。
初代房恒(江雪の長男)は、後北条氏の家臣で、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に、埼玉の岩槻城を守っていて、ここで戦傷した(この奮戦ぶりを、房恒が晩年になったときに徳川家光が尋ねたという)。このため妻の里の恩田村(糟屋氏;戦国武士)に潜んだ。翌年徳川家康に謁見し、500石の旗本に取り立てられ、長津田村を初めて知行した。爾来、今年で432年になる。
房恒の父を板部岡融成(みちなり)江雪といい、小田原北条氏の評定衆の一人で重臣であった。江雪は雄弁でしかも雄才であった。そのため和睦の交渉や降伏の説得などは彼の得意であったという。
また、小田原北条氏の交渉役として豊臣秀吉にも幾度か会っている。関ヶ原の戦いでの小早川秀秋の内応の仕掛け人でもあったという。この江雪の活躍ぶりは、NHK大河ドラマ『真田丸』で大々的に放映された。
なお、徳川家康の側室お万の方(養珠院)は、江雪の姪(姉の子)との説がある。お万の子・頼宣(後の紀州徳川家)が幼少の頃、江雪の次男房次と孫の英明が守役を務め、曾孫の房明が紀州徳川家の家老の一人となって、以後代々家老を務めた。
房恒は万治元年(1658)6月2日に没して大林寺に葬られた。天正19年(1591)に房恒が長津田領主となってから277年目を経た慶応4年(1868)5月、岡野家は11代目の由成で領主としての幕を閉じた。なお、直系の血筋は平成4年に絶えた。
《八百屋お七の祟り》
岡野家には八百屋お七の祟りという伝説があったという。どんなふうに祟るかというと、家が栄えてくると領主が短命であったり、世継ぎがなかったり、多病であったりということのようである。
お七が火あぶりになったのが天和3年(1683)3月といわれ、この事件を直接担当したのは盗賊追捕役の中山勘解由直守ということになっている(直房との説もある)。このとき、長津田三代の領主の房勝は、天和2年11月11日に盗賊追捕役となり、お七処刑の翌年貞享元年(1684)12月26日まで勘解由と同職にあったので、この事件に幾分関与したものか、或いは房勝の孫にあたる五代成路(しげみち)の妻は中山勘解由直守の曾孫直看(なおもと)の娘であった。さらに、六代目成韶(しげつぐ)の妻も中山家の分家筋から嫁いでいる。これらから、お七の妄念と思い込んで病んだのではないかと推察される。江戸屋敷にはお七稲荷が祀ってあったという。
ちなみに、八百屋お七を裁いた中山直守又は直房以後の中山本家の歴代当主は、軒並み30歳前後の若さで亡くなっている。まさにお七の祟りなのでしょうか?
③下宿常夜灯(下宿晴嵐:長津田十景)
下宿常夜燈は、長津田宿の歴史を象徴しており、「下宿晴嵐(しもじゅくせいらん)」として長津田十景の一つに指定されている。晴嵐とは朝霞の中での宿場町の活気を表している。文化14年(1817)、宿内の大山講が建立した。昔々は、片町地蔵の近くの大山街道と神奈川道の交差・分岐する付近の道の中央にあった。その後、道路の拡張などで何度か移転している。現在地へ移転は、道路の拡張に伴い、平成20年(2008)に行われた。この時に新しい常夜灯に変身している。常夜灯の頂部のみ昔のものである。
〇渡辺崋山と兎来、琴松
江戸幕末の天保2年(1831)、三河国田原藩士の画家で蘭学者の渡辺崋山が弟子の高木梧庵を連れ、江戸を出発し相模国厚木までの大山街道を旅し、四泊五日の絵付き紀行文を『游相日記』として著した。そこには長津田宿で萬屋を営み、画家で俳人でもある新倉藤七(俳号澤月堂兎来)を訪ねた際の様子が生々しく書かれている。この場には琴松という俳句仲間も居合わせ、崋山と俳諧の交歓をした。
箍(たが)掛りしばりあげけり萩の花 琴松
大海や何所まで秋のとどく音 兎来
兎来の家の「萬屋」は、まさに現在の下宿常夜灯の付近に在った。
④片町地蔵(緑区遺産014:旧大山道と神奈川道分岐の道標)
大山街道(矢倉沢往還)と神奈川道が交わる所に道標を兼ねた地蔵塔がある。この地蔵塔の台座には次のように刻まれている。
舟形地蔵塔
台石正面 向テ右り かな川 左 みそノ口
地蔵塔
本体正面 武州都筑郡長津田村 奉造立地蔵菩薩
享保二十乙卯四月吉日
台石正面 南カナ川道
施主 河原浅右衛門 河原清兵衛 東江戸道
台石と地蔵の組合せが違っている。本来の台石と地蔵の組み合わせは
❶同士と❷同士となる ❶ 。
⑤岩川堰(緑区遺産021)
岩川は滝沢という地・現在の東名高速横浜町田インターチェンジ付近から湧き出す水が、岡部・中村・御前田・下長津田を経て、恩田川に注いでいる。かつての長津田の多くの田んぼは、概ね岩川に沿って開けていた。岩川の水は周辺農地の灌漑(かんがい)に使われるとともに、精米にする際の水車にも使われていた。明治45年(1912)頃から台の水車、岡部の水車、御前田の水車、下長津田の水車が作られ、その中でも下長津田の水車は最も水量に恵まれていた。下長津田の灌漑に欠かせない岩川堰は、大正12年(1923)の関東大震災で大破したが、国や県の助成金と地元の有志が出資した工事費で、大正15(1926)年にコンクリート堰に改修された。現在は堰としては使用されていない。
長津田の最北端の下長津田の田圃の灌漑用に、渇水対策として岩川の原流域の上長津田の滝沢(長津田の最南端)に高尾池を設けていた。しかし、遠隔地であることや涸れやすい状況にあったため引水に支障が生じていた。このため昭和8年から9年にかけて公の助成金と地元負担金とで、岩川堰の近くに竹之内池を設けた。現在のいぶき野小学校近くのいぶき野第四公園付近である。
しかし、岩川流域の宅地化の中で川の汚染化が激しく、昭和49年(1974)完成の区画整理を機にこの池を埋め立てて売却した。この資金を元に、地下水をポンプアップして田圃を灌漑する方式に改めた。現在、岩川流域には3か所のポンプアップ施設がある。これをもって、下長津田に在った岩川の2か所の堰はその役目を終えた。
⑥長津田みなみ台公園(住撰夕照:長津田十景)
いぶき野小学校と道一つ隔てた所にある公園で、古くから地名が「住撰」と呼ばれている。長津田町の広い範囲を見渡すことができ、夕景色や富士山が綺麗に見える場所で、長津田十景の「住撰夕照(じゅうせんせきしょう)」に選定されている。また、この付近には、縄文時代や平安時代の遺物・遺構が発掘された住撰遺跡や宮之前遺跡などが在る。「墨書土器」と言って、文字の書かれた器などが発掘されている。
⑦長津田みなみ台緑道
長津田みなみ台公園、長津田宮ノ前第二公園、玄海田公園の3公園をつなぐ緑道である。せせらぎの流れを眺めながら散歩できるコースとして、多くの方が楽しめる場所となっている。
この地は、昔々今から460年前頃前に大林寺が在った住撰山麓周辺地で、大林寺沿革記には「当時該所人跡稀に野猪群り為し蠎蛇(うわばみ)蟠踞し猛獣の咆哮谿間相答ふる寒郷なれば・・・」と記述されているほど辺鄙な所であった。
長津田みなみ台地区が開発される前は、かなり寂しいところで、玄海田を水源とした小川が流れ、狭い谷戸田があった。
⑧玄海田公園(長月飛蛍:長津田十景)
この公園は平成19年(2007)3月に公開された総合公園である。面積は173千㎡で、緑区の中で2番目に大きい公園である。雑木林や谷戸などの豊かな里山の自然を有し、自然生態園(ホタル沢や自然保護樹林)ではゲンジボタルや希少鳥類などの貴重な生物が多く生息している。
大規模な造成計画の中で意図的に残された谷戸地は、自然景観保全の中心的な役割が期待され、古いものと新しいものが交錯する長津田にふさわしいとして「長月飛蛍(ちょうげつひけい)」として長津田十景の一つに指定されている。
⑨天王社 (天王鶯林:長津田十景)
天王社とその周辺は、谷戸を隔てる丘陵の尾根に当たり、未だに都市の喧騒から隔てられた良い景色が広がっている。鳥のさえずりが美しい。平安京の東、八坂の地にある祇園(ぎおん)社の名称は、神道の素戔嗚尊が祇園精舎の守護神である牛頭天王と同一視され祀られていたことに由来する。
中村・天王様の祭りは6月14日に行われた。疫病が流行る頃は夏祭りが多い。
備考2;天王信仰の由来
中村の天王様は、正しくは牛頭天王宮という。京都祇園祭は貞観11年(869)、京都に疫病が流行した折に、これを怨霊の仕業と信じた当時の人々が、神泉苑に日本全国の国の数と同じ66本の鉾をたてて祇園会を行ったのが始まりといわれている。ということで、祇園祭とは、疫病の神を鎮め怨霊を慰めるために行う御霊会(悪疫退散・無病息災・五穀豊穰の礼念会)である。
なお、明治に神仏分離が行われた際、仏教の神である牛頭天王は祭神から外され、同時に多くの神社名から仏教用語の「祇園」や「牛頭天王」が外され、総本社である京都の祇園社も八坂神社と改名された。しかし、中村の天王様は牛頭天王を名乗り続けている。
⑩福泉寺
境内の掲示板によると、「開山は僧榮存、文禄から慶長の頃(1592~1600)、当地の領主岡野房恒公が村の鎮守として勧請した王子権現(王子神社)の別当寺として開基されたと伝わり、本尊は薬師如来である。江戸時代は、領主岡野家の祈願所として、領主の庇護の下、田畑山林の寄進を受け、また徳川幕府から御朱印4石5斗を賜り、祈祷寺として栄えたと言われている。明治23(1890)年頃、失火のため伽藍は全焼し、一時は無住の時代もあったが、現本堂は昭和45(1970)年に再建、客殿は平成5年(1993)に完成した。
福泉寺は、緑区で唯一「戒壇めぐり」ができ、福泉寺だけで七福神めぐりができる。また、ぽっくり地蔵(別名:ピンピンコロリ地蔵)があり、「武相寅歳薬師如来霊場」、弘法大師「関東八十八カ所霊場」などで、かなり有名な人気スポットとなっている。
⑪王子神社(王子秋月:長津田十景)
創建の年代は定かでなく、文禄年間か慶長の初期と推定されているが、境内の掲示板では“慶長元年(1596)に長津田領主である旗本岡野房恒が創建した”としている。ご祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)である。
伝承によると、長津田村鎮守として国家安泰極楽平穏の霊験あらたかな神として、熊野三山(本宮、新宮、那智)のうち新宮(速玉大社)より若一王子権現(備考3参照)をこの地に勧請し、別当寺に福泉寺を開基して管理運営に当たらせた。
明治維新の神仏分離令によって権現をとり若一王子神社と改め、昭和18年に王子神社と改称された。昭和61年(1986)に権現造りの立派な社殿が完成した。社殿内に領主岡野家が江戸時代に造った奥宮が保存されている。
大石神社とともにこの地の鎮守である王子神社は、境内に市の指定した名木もあり、良好な環境を保っているエリアである。空に輝く円月を想い起こさせる。
備考3;王子神社の御祭神の勧請元について
伝承によると、新宮(速玉大社)より若一王子権現を勧請したとされるが、本来は熊野十二所権現のうち、速玉大社そのものの系統から勧請したものと思われる。 これは王子神社の御祭神と福泉寺の本尊との関係による。
祭神 本地仏 若一王子 天照大神 十一面観音
速玉大社 伊邪那岐命、速玉男命 薬師如来
この祭神と本地仏の関係が成立(王子神社の祭神と福泉寺の本尊)するのは、速玉大社である。
⑫長坂(長津田十景:長坂夜雨)
かつて上宿の常夜灯があった大山道と神奈川道(鎌倉道)の分岐点を過ぎ、鶴間方面に向かってだらだらとした長い坂道が続く。この大石神社・長津田小学校・森村学園・つくし野アスレチックに向かう旧道が長坂である
大山道(矢倉沢往還)は次第にその道筋を変え、長坂付近は現在の国道から取り残された。坂に通じる長津田小学校脇から森村学園脇の旧道には、昔の矢倉沢往還の雰囲気を僅かなりとも伝える場所が一部残っており、蓑笠を付けた旅人が雨の中を歩く様子が連想されることから、「長坂夜雨(ながさかやう)」として長津田十景の一つに指定されている。
葛飾北斎は、「鎌倉・江ノ島・大山新板往来雙六」のワンカットに、この長坂から長津田宿を望んだ風景を描いている。実際はすぐ向こうに大石神社の山があり長津田宿は見えないが、あたかも見えたかのように透視している。ここに描かれた道筋は、現在もほぼそのままの面影を残している。
備考4;葛飾北斎が描いた絵が「鎌倉江ノ島大山新板往来雙六」という双六になっている。
これは日本橋を振り出し、鎌倉・江ノ島・大山を巡り、長津田や三軒茶屋を通って再び日本橋へ戻 る形の双六である。実際の遊山では、当時の江戸の人々にかなり馴染深い経路であったと思われる。
柳亭種彦撰、西村屋・鶴屋刊の合巻『正本製』十二篇上冊の巻末、文政14年(=天保2年)の新板目録にこの双六の広告が掲載されており、文政13年のものにはない。従って天保2年(1831)に出されたものと思われる。
⑬上宿常夜灯
天保14年(1843)に宿内の秋葉講が建立した。 昔々は、大石神社の女坂の麓近くの大山街道と神奈川
道の合流・分岐する付近の道の中央にあった。その後、女坂の麓の右側の小高い所にあったが、昭和29年(1954)大山街道が拡幅整備された際に、旧道と新道の分岐する所に移転し、さらに地主の都合により大石神社奉賛会の協力を得て、現在地に移築・整備された。東日本大震災で倒壊し、復旧時に頂部が新しくなった(古い頂部は傍らに置かれている)。
秋葉講は静岡県周智郡春野町にある秋葉山本宮秋葉神社の防火、鎮火の神を信仰する人々の組織である。長津田における秋葉講は、天保2年(1831)長津田宿(現御幸通り)、東光寺(現東向地)、御前田の部落の信者によって結成された。
⑭大石神社 (大石観桜:長津田十景)
大石神社の創建年代と由来等は定かでない。御神体は大きな石で最大幅110㎝、最大高さ135㎝の楕円形で、石の質は安山岩で水中に相当長くあったように思われ、幾分手を加えたような跡がある。緑区唯一の自然神(大きな石)を祀っている神社である。
新編武蔵風土記稿には「大石神社は在原業平朝臣を祭れり」とあり、この大石は伝説によると、在原業平とその愛人が武相国境にかかると周囲から火をかけられ、一緒に石に化身したものと言われている。この大石は武蔵国と相模国の境(瀬谷村と長津田村の境)にあったが、双方の百姓がその所有を主張して譲らず、遂に争いとなり、神意によって決着をつけることになって、大石が倒れた方の村が勝ちと決めた。大石は長津田の方に倒れたので、長津田村に運ばれて大石山に鎮座している。
大石神社の御祭神の由来である「大石伝説」は、「伊勢物語 十二段 野焼き」の場面によく似ている。在原業平とその連れの女が武蔵野にかかると、周囲から火をかけられる場面である。
大石神社には、市指定の名木「シラカシ」と共に桜が多くあり、春には美しく花開くことから、「大石観桜(おおいしかんおう)」として長津田十景の一つに指定されている。
⑮御野立跡 (御野立落雁:長津田十景)
「御野立」と呼ばれているこの地は、長津田駅プラットフォームからも見えるように小高い丘であり、かつて「神明山雪見ガ丘」あるいは「神明ケ丘」と呼ばれていた。昔はここに神明社があったが、現在は大石神社に合祀され、天照大神と刻まれた石塔が残るのみである。また、「金毘羅の丘」とも言われ、今も金刀比羅神社がある(八坂神社に合祀:神社内中宮の右が金刀比羅神社・左が八坂神社)。
この地は眼下に恩田川とその周辺の地が一望できる高い場所にあり、夕方に雁が空から舞い降りるイメージから、「御野立落雁(おのたちらくがん)」として長津田十景の一つに指定されている。
《皇太子殿下御野立之跡碑》
高さ約7mの御野立之跡碑は、緑区唯一の御野立記念碑であり、大正11年(1922)10月17日にその除幕式が行われている。「大正10年11月18日から21日にかけて、東京に飛行機が飛来し、焼夷弾と爆裂弾を投下して攻撃するとの設定で、兵士約10万人が東西に分かれて陸軍大演習が行われた。旧緑区もこの演習の地にあてられた(都筑郡長津田村・恩田村)。19日に当時の皇太子殿下(後の昭和天皇)がこの長津田の神明ケ丘に演習の統監のため訪れた。この記念の松1本が植えられたが枯れてしまい、二代目も植えたがこれも枯れて、今は記念碑のみが残っている。
記念塔(皇太子殿下御野立之碑)は演習の翌年の大正11年(1922)に花崗岩で建立された。しかし、翌年の大正12年の関東大地震で倒壊してしまったので、すぐに再建して今日に至っている。
《慰霊塔》田奈地区戦没者慰霊塔
隣の御野立之跡碑よりも横幅が一回り上回る巨大なものであり、昭和38年(1963)5月に建立された。支那事変と大東亜戦争における田奈地区出身戦没者計318柱(長津田162柱、恩田・奈良156柱)を慰霊するためのものである。
御野立之跡碑の東側(向って右側)には、明治40年(1907)10月建立の「日露戦役記念碑」、更に斜め左側に、殉国之士碑、忠魂碑などがある。これらの碑は慰霊塔の建立に際し、田奈地域の処々にあったものをこの地に移したものである。
ぶらりタウンウオーキング中山
~知られざる中山の歴史を訪ね歩く~
2024年6月15日(土)9時30分 中山地区センター集合
コース:中山地区センター⇒都橋⇒大蔵寺⇒川和踏切⇒長泉寺⇒慈眼寺⇒中山商店街⇒中山駅
中山駅周辺のふしぎ発見!
1 中山は明治時代、武蔵国都筑郡新治村字中山
(むさしのくにつづきぐんにいはるむらあざなかやま)
昭和14年(1939)に横浜市に編入(港北区)
郡役所は川和にあった名残が今も残っている!
都橋 川和踏切 西村橋
2 中山周辺の古道
鎌倉道(鎌倉中の道)
中原街道(平塚から江戸)
神奈川道(八王子道)
3 中山の義務教育の始まり
明治6年 長泉寺に「中山学舎」を開校。
明治10年久保学校と統合
明治25年(1892)大蔵寺を借用して
「都筑郡新治村立高等新治小学校」
明治42年(1909)中山駅近くに新校舎
大正13年(1924)前年の関東大震災で倒
壊し、現在の消防署・警察の敷地に移転
現在は中山小・森の台小・上山小
4横浜線開通(M42)は中山商店街発展のきっかけとなった!
現在は加盟店146軒 横浜市緑区最大の商店街
横浜線開通時には中田屋1軒のみ(令和5年閉店)
昔は川が流れていた?
5 JR中山駅はなぜか緑区寺山町80番地にある
(地下鉄中山駅は中山1丁目)
般若山廣福院大蔵寺(曹洞宗)武相寅歳薬師如来霊場 第5番札所
「兵衛尉相原左近」(鎌倉将軍源頼朝の家臣―中山村の相原家一族の祖)が中山村に移り在地の鎌倉武士として、相原家の菩提寺として大蔵寺を創建したと伝来。1608年頃火災で焼失したのち、相原左近の屋敷跡に再建。戦争中は神橋小の学童疎開を受け入れた。
*中山小学校創立之碑
明治25年9月7日、大藏寺内に「新治村立高等
新冶小学校」設立。
これが「中山小学校」の創立である。
明治41年、「新治村立尋常高等中山小学校」設立。
明治41年中山町150番地へ移転
*その他の建造物:
天童山老典座和尚と若き日の道元禅師、おそうじ小僧、閻魔様、稲荷大明神社、等
寿保山宝甲院長泉寺(高野山真言宗)旧小机領三十三所子歳(ねどし)観音霊場30番
*建久二年(1191年)在地の鎌倉武士となった斎藤平衛門右近が創建と伝えられている。
*「中央に小さき山あり、これ中山の起こり」とされている。「新編武蔵国風土記」
*入口右に「木食僧(もくじきそう)(五穀を断って木の実を食べて修行する遊行僧)観正」の石碑。台座には旭区、都筑区、緑区の村人達の名前が刻まれている。
*入口左に「庚申塔(こうしんとう)」がある。青面金剛像(しょうめんこんごう)で元禄6年
*明治6年長泉寺に「中山学舎」を開校(義務教育)。中山学舎の教員は小澤應中(長泉寺住職)
*忠魂碑 昭和7年日清日露戦争の新治地区の戦没者慰霊等(25人)
昭和32年に大東亜戦争の戦没者(251人)慰霊塔
(当時新治地区は1000戸、4軒に一人の戦没者がいたことになる。)
慈眼寺(高野山真言宗)旧小机領三十三所子歳観音霊場29番
*本堂左 俱利伽羅不動尊(くりからふどうそん)不動明王の化身
龍が剣に絡み、その剣を咥えて呑み込もうとしている姿(水源地か雨乞いの所に祀られる)
かつて1500M程離れた「滝の谷戸」の滝口に、文化4年(1807年)に祀られていたが、宅地造成で枯れたので、昭和44年慈眼寺に移した。高さ62cm、幅27cm、厚さ15cm。滝は平成元年(1989)元あった県立四季の森公園内に復元されました。
*観音堂 十一面観音 子年に開帳 前立80cmが安置されている。山城國清水寺の観音と同木にて、行基作と言われている。天井画は兎来作の龍の絵
*戦争中は神橋小の学童疎開を受け入れた。
(神橋小は人数が多く、他に舊城寺、寶帒寺、保壽院へ別れて疎開した)
中山を通っている古道
鎌倉道「いざ鎌倉」の道
中山を縦断している中の道は、上白根から中山(長泉寺、大蔵寺)を通って川和、荏田を通り奥州へ行く
頼朝の奥州征伐で通った道で、悲劇の畠山重忠や鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞も通ったかも知れません。軍事的な目的で整備されたため、尾根道が多いのも特徴です。
中原街道(現在は神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線)
相模国国府が平塚におかれた頃成立したと考えられています。
平塚の中原から江戸城の虎ノ門まで続いていた。
1590年家康が関東移封の際、この道を通って江戸城に入り、その後家康が鷹狩のため中原(平塚)に御殿を立ててしばしば訪れたことから、中原街道の名ができた。
神奈川道(八王子街道)(山下長津田線)
神奈川宿から鶴見川南岸の小机、鴨居、中山、十日市場、八王子へ向かい、八王子に至る道筋のことです。途中途中にある近世石像物には両方の名称が刻まれています。江戸時代、年貢輸送や生活物資の輸送として使われていた。
中山商店街協同組合
明治41年(1908) 横浜鉄道(現横浜線)開通
中田屋(だんご)(M30)、かね長(駄菓子屋)(M45),
瀬谷銀行(現横浜銀行)支店開設(T13)
八百三(T4)、便利屋(T9)、三笠勉強堂(T10)、福田屋(T14)、中山薬局(S14)
昭和14年(1939)横浜市へ編入し、新治村大字中山から横浜市港北区中山町
昭和21年(1946)9月中山商栄会(23店舗)として発足
昭和31年(1956)川を暗渠化して道路を拡幅
昭和47年(1972)緑区役所寺山町へ移転
昭和56年(1981)第1回中山まつり
リリーちゃんスタンプ 100円ごとスタンプ1個 350個で500円 くじ引き10回