十日市場の不思議歴史散策と最後に旭谷戸(新治地区)でサツマ芋堀り!

 

日市場駅前 915分集合  930分出発 12時頃解散  

 

*十日市場駅から現地まで往復4kmです。

 

*現地から中山駅まで約3kmです。

●ウオーキングルート

9;15 十日市場駅南口受付開始

① 9;30 十日市場駅と十日市場町の紹介    

②9:45 日向山神社社

955  庚申塔          *1005    古道の三叉路(その1) 

④10;15 十日市場推定地跡他                *古道の三叉路(その2)

1025 後家宮地蔵            

⑥10:30 新治小学校の旧跡         

1045 奥津邸

1155 新治里山公園・にいはる里山交流センター トイレ休憩15

⑨11:10 加藤園サツマイモ掘り

 

 

●見学地コメント

 

 ①十日市場駅開設記念碑(十日市場の人たちの長年の願いがかなった!)       

  今から111年前の明治41年に横浜線が開通以来、長年中山駅と長津田駅の中間過疎地であった十日市場は、大正10年には各家庭に電灯が灯されランプ生活から改善されました。

 昭和35年当時南側の山林一帯をゴルフ場に売却する案がありましたが、横浜市が買収して市営住宅の開発に端を発し、東名高速道路が着工された昭和37年頃から町の開発に関心が高まり、住民討議の結果昭和46年には大部分が山林、農地であった十日市場は横浜市と日本住宅公団が推進する土地区画整理事業に町を挙げて土地の提供にも積極的に協力しました。

 更に念願の新駅設置を前提にした霧が丘65.7へエクタール(約20万坪)が横浜市によって開発され、遂に昭和54(1979)年41日、十日市場駅が「請願駅」として開設されました。

 総額18億円の費用は横浜市40%住宅都市整備公団35%神奈川県住宅供給公社25%が負担して、南口1600坪北口970坪の広場を持つ十日市場駅が横浜線開通以来71年振りに住民の念願がかない「請願駅」として開設されるに至りました。

 駅の南右側の交番のそばに建つ記念碑にはその時の慶びが記されています。

 

 ②日向山(ひなたやま)神社 

  昭和37年(1962)12月に宗教法人・日向山神社として設立された十日市場の総鎮守。石碑には、昭和30年(1955)に北門の子ノ神社、台の神明社、宝袋(寶帒)寺の八幡社が合祀され、翌年には村の中央にあった第六天社も合祀されて、新たに日向山神社となったと記されています。 

 本殿左側に祀られている乳水大明神は、「乳が出ない母がここから湧き出る水を飲むと出るようになるとの評判をえて、他村からも参拝者が多く、昭和の初めにコンクートとの表示を作った。」と言われています。

 神社の前の道路改修記念碑には「縦貫道路ハ古ク鎌倉時代ヨリ八王子街道(神奈川道)トシテ交通ノ要路デアッタ」と記載されていて、中世からの歴史を感じることができます。

この道路は応永7年(1400)榎下城が築城された時、十日市場に警護の北の門が造られたと伝わっていますが、そのための武士が往来した鎌倉道であり、江戸時代後期には片倉の鑓水商人が絹の道・日本版シルクロードとして往来が盛んになり日本経済の支えにもなった神奈川道でもありました。

道幅は2間(3.6メートル)で村の主要道路でもありましたが、昭和8年に市や住民の資金協力などで長さ2000メートルを幅員5メートルにした工事を竣工したことが鳥居左の石碑に刻まれています。

③庚申塔(こうしんとう) 

  一夜寝ずに青面金剛などへ勤行をしたり宴会をしたりする行事を3年から5年継続してその満願記念の証として、庚申塔が建てられたといわれます。この塔には「元禄6年(1693)3月」に「十日市村」という村名が刻まれています。 

 この庚申塔は、地元郷土史研究家の相澤雅雄氏の「十日市場村史」によれば十日市場近辺各地で29体散見できると報告され、この信仰も昭和前期まで続いたと記されています。

 

 ④十日市場推定跡地

  神明下はかつて神明社、長光寺、高札場があり、鎌倉道と神奈川道とも重なり、十日市場地名の発祥地として「新編武蔵風土記稿」にある「十日に市が立った」場所と推測されます。

 明下は、明治6年の地租改正条例で十日市場町字神明下と制定された地名で、一帯は台地でしたので古くからの遺跡や民家、更にドウ屋敷といわれる村の共同施設などがありました。

 区画整理事業に伴い昭和57年から61年に神明下遺跡群やドウ屋敷、長光寺跡の発掘調査が横浜市埋蔵文化財調査委員会で行われ、榎下城関連とみられる中世の板碑や、江戸時代の茶人が愛用した天目茶碗(茶の保温に優れたものとして茶道を愛好するものに好まれた)などが出土しました。

 

⑤後家宮地蔵

  この地蔵さまは「後家宮地像」といわれ、何やら意味ありげに聞こえますが、台石に「榎下〇後家宮村惣本願女房衆同行拾二人同十日市村三人也‥寛文丙午6年(1666)二月」と刻まれていることからすると、後家宮(村)で建てられたお地蔵様ということになります。ここでも「十日市村」と記されています。

 土地所有者の平本さんにお尋ねしたところ、区画整理以前は道路の南側にあったものが、平本家側に移されたとのこと以外は判らないが、今も絶えずお参りされる方がいらっしゃるとの事ですし、近隣の方からは嫁入りの時はこの道を避けていったとも言われています

 

⑥新治小学校跡地「旧旭尋常小学校」 

ここは、明治41年から新治小学校があった平本さんのお屋敷で、ここで三保、新治、十日市場の子供たちが学んでいましたが、それぞれの町の発展と共に独立移転し、現在の新治小学校は此処から500メートルほど先の所に昭和59(1984)年に移転しました。

 

学校の歴史は、古くは宝暦年間(1751~63)に江戸浪人の清水礼吉が十日市場の加藤家で読み書きを教え、その後は宝袋寺が寺子屋をしていた記録があります。

 

明治6年「学区制発布」により十日市場の磯村家で「中村学舎」が開校されてから、明治10年加藤家での「郁文館」に移転、明治19年「公立旭小学校」となり明治29年火災の為円光寺に移り、38年に「旭尋常小学校」と改名され、明治41年からこの平本家の土地に6教室が建設され、6年生までが在籍しました。

 

当時の校舎は南向きに建っていました。当時の運動会は中山、鴨居との三校合同で中山で行われ、小学校卒業後は中山・大蔵寺にあった中山尋常高等小学校へ通いました。

 

特に戦後は校舎の老朽化と教室不足が重なり、地主の平本庄輔さんは瀬谷の海軍弾薬庫から2階建て6教室をもらい受け、資金を含めた資材の調達にも腐心され竣工に努力されました。

 

代変わりされた現在の平本家ご主人は、霧が丘で平本内科医院を開業される医師であり、十日市場小学校近くの「あさひが丘幼稚園」をご夫妻で経営もされています今も変わらぬ地元の名士です。

⑦奥津邸(おくつてい) 

奥津家のご先祖は、地元の方からは「山大尽」と言われる評判の資産家でしたが、相続問題の解消策として、平成12年3月に「新治市民の森」が開園された翌年の13(2001)年8月に横浜市にお屋敷全体と周囲の畑や山林などが寄贈されました。

この建物の内、立派な欅や檜で作られた日本建築の母屋は平成6年に完成したもので、現在は年間を通して屋内で様々なイベントが企画されています。

入口の長屋門は天保9年(1838)、白壁の蔵は大正15年の建築と言われ、特に長屋門は、江戸時代では上級武士の屋敷の門形式でしたが、江戸中期の元禄の頃には名字帯刀を許された名主庄屋などを務めた民家の門形式にも広がり、緑区ではこの奥津邸と親戚の鴨居・岩岡邸の他西八朔の極楽寺門の3か所に見られます。

長屋門両脇の部屋は家臣や下僕の居所や物置とされましたが、横浜市に寄贈後の現在は四季折々の節句など伝統的な風俗習慣の展示場としても活用されています。

また、この長屋門は平成14年に横浜市認定の歴史的建造物に指定されました。建築当初の様式は北側が切妻、南側は寄棟の茅葺屋根でしたが、平成4年に写真の様に修理され、更に平成20年耐震改修工事で現在の姿になったと言われています。

⑧新治里山公園・にいはる里山交流センター「つどいの家」  トイレ休憩

  緑区で緑地として最も広い72ヘクタールの新治里山市民の森が広がり、周辺の環境浄化ばかりでなく、緑区全体の緑被率が41%もあることや緑区名の由来にも大きな役割を果たしています。

  森の中は、全長5690メートル、5コースに分かれた散策ルートがボランテイアの皆さんによって整備され、46ポイントに地名の由来やコース案内が記されています。

手前の農地部分は朝日の差し込む「旭谷戸」といわれた肥沃な土地で、奥深く広がり梅田川の源流の一つにもなって田畑を潤しています。農地部分は朝日が差し込む「旭谷戸」と言われた肥沃な土地で奥深く広がり梅田川の源流 の一つとなって田畑を潤しています。本日案内する加藤農園もこの一角にあります。

 ⑨加藤農園での芋掘り

   サツマイモ掘りはお一人3株です。くじ引きで順番を決めますので、決められたところにお入り下さい。 土の中は見えないのでどんなものが自分に取れるかを楽しんでいただくのも一興だという事になり、くじ引きで順番を決めるスリルもお楽しみいただくことにしました。

 くじ引きに際し、親子の方やグループの方で一緒にまとまって作業をご希望の方は、代表 の方がグループの人数をご報告の上でくじを引いてください。