玄海田公園をスタート、長津田の2つの「緑区遺産」、長津田十景の3か所を回ります。
一緒に歩いて、健康増進と交流で“心を豊かに”できればと思います。
物語のあるまちです。
*長津田みなみ台開発について
2005年に長津田町、十日市場町、いぶきの町の一部が合併して新しく誕生した長津田南台
1)開発の目的 都市化の著しい横浜市北西部に、良好な自然環境と調和した複合的な市街地建設を行うことにより、無秩序な市街地を未然に防ぎ地域の発展に貢献するとともに、住宅地の大規模な供給を行うことを目的にしています。土地区画整理法によるまちづくりです。
2)具体的特徴
(1)開発面積;94.1ha(大きさ比較;霧が丘113ha,若葉台89ha,横浜動植物園103.3haとほぼ同じ大きさです)
(2)土地利用計画
①住宅用地;46.2ha(全体の半分)住宅計画戸数;3130戸、計画人口;9400人。
②公共用地;道路、公園・緑地、河川等24.6ha(全体の1/4)内道路が60%。幹線道路18mは電線を共同溝として電柱のない町としている。公益施設用地23.3ha(内玄海田公園17.3ha,業務用地6ha(アピタ、ビバホーム:駐車場2800台、2005年12月オープン)です。
(3)施工者;独立行政法人UR都市再生機構(前身は日本住宅公団)
(4)事業期間;1998年~2009年1984年市街化区域決定から約33年を経過。
1. 玄海田公園について
・玄海田というのは旧地名です。17.3haの広さで日比谷公園16.2ha並みです。ここは自然を残しながら多目的運動広場で、左の谷戸地には自然生態圏があります。ホタルがでます 長津田十景の⑨番目長月飛螢(ちょうげつひけい)です。植栽木;1万⑦千本
周辺には、プリマシティ15年前2005年14階建て499戸、
商業施設アピタやホームセンター。2005年9月 駐車場2800台
これから緑道を通っていぶき野小学校に向かいます。
2.長津田みなみ台緑道
・小川のせせらぎは、玄海田公園から水を引いて作りっています。周囲に潤いを与えています。
・左手公園の先には、リバティハウスがあります。開発時に地域の人たちが憩うイベント広場です。貸館でこの地域には横浜市の施設がなく、優遇を受けているようです。
サロンやお店を開いたり、地元の人が楽しんでいます。
右上は中学校用地でしたが、10年前に宅地化しました。かろうじて緑が残っています
3. いぶき野小学校
平成元年(1989)開校、長津田小学校から分離、マンモス校です。
4.長津田みなみ台公園です。「住撰夕照(じゅうせんせきしょう);長津田十景⑩」
見晴らし台では夕日が真っ赤にそまり、雲の中で沈みゆく様子が幻想的です。
遊水池には雉が飛んできましたが、残念なのは、最近は玄海田公園で見たとの話だけです。
*「長津田十景」は、自然が多く、景勝地としての見どころを、中国湖南省の瀟湘八景(しょうしょうはつけい)をモデルに、「長津田宿の歴史を生かしたまちづくり研究会」が中心となって2005年(平成17年)1月に選定しました。
自治会、地区社会協議会、区役所による合作です。
5.「長津田」のお話
古くは「武蔵国津田郷」貞和5年(1349年)、秀吉の検地帳では「ながつた」、明応9年(1500年)「武蔵野国 都筑郡 長津田村」 とあります。
過去の記録を追うと、貞和5年(1349年)「武蔵国津田郷」、明応9年(1500年)「武蔵野国都筑郡長津田村」、秀吉の検地帳では「ながつた」とあります。
江戸時代の長津田は、徳川旗本岡野家が長津田村を幕末まで統治しました。部落割りでは「宿(しゅく)」(中心部)「下長津田」(恩田川、岩川の下流域)、「上長津田、御前田・中村・岡部谷戸・台」(岩川中・上流域)、「東光寺」(現東向地、恩田川流域)の4つに分かれます。
文禄3年(1594年)の検地台帳によると、29人の地主、名字帯刀を許された長津田七氏がおりました。嘉永6年(1853年)には、お米の収穫高約1000石、153戸でした。
*江戸時代、徳川の旗本 岡野家が幕末まで統治しました。
嘉永6年(1853年)には、お米の収穫高約1000石、153戸
6.岩川
見えてきた川は岩川です。1850mで東名の横浜インター横の岡部谷戸地を源流に、長津田のほぼ中央を流れ、恩田川に合流します。
元の大林寺(元住撰寺)のお墓の横を通りました。住撰とはこのあたりの旧地名です。
昔は岩川の底はずーと高く容易に田圃に水が引き入れられました。現在では川を整備したので低くを流れています。川の整備はその名の通り岩盤で大変だったようです。
7.いぶき野
ここは下長津田(いぶき野)で、昭和54年にこの地区の開発、区画整理して、いぶき野小学校の土地も捻出しました。昭和48年に下長津田区画整理事業が竣工「いぶき野」が誕生しました。
右の高いところはいぶき野第4公園で、昔はため池でした。日照りの時に田んぼに水を流しました。
8. 岩川橋梁(鉄橋):横浜線110年の鉄橋(緑区遺産013)
緑区ホームページ
明治41年(1908年)に開業した横浜鉄道(現JR横浜線)に架かる石積みの橋梁です。 いぶき野を流れる岩川に架かるもので、大正12年(1923年)に起きた関東大震災にも耐えるほどの強度を持ち、石積みの技術力の高さが認められる橋梁と言われています。 横浜鉄道開業から110年以上経った今も現存する数少ない石積橋梁で、貴重な近代土木遺産としても評価されています。 |
*緑区遺産は地域に認められているものを募集し、登録する遺産です。
*川底が岩で多くの穴があった。大きくて深い穴の中には、河童が住んでいて、小さくて浅い穴は河童が歩いた足跡だとも言われています。
また、源頼朝が馬で渡った蹄の跡ともいわれています。
(8 橋梁の北側から)
横浜線25箇所中で最も高く、地上から15mの高さで見ごたえがある。
横浜線の設計は、横浜鉄道(株)顧問の技師・笠井愛次郎と同社技師長の伊藤隆三郎の二人が手がけています(「横浜鉄道線路説明書」『鉄道院文書』より)。ふたりは、明治期の理工系の高等教育機関であった工部大学校(現・東京大学工学部の前身)土木科の第4期生でした。(地域史研究家・相澤雅雄氏原稿から)
この先は恩田川で、その先に鶴見川に流れ込みます。鴨、シラサギ、蝙蝠もいます。
最近、岩川周辺に自然が戻ってきました。カワセミ、特にホタルもみられるようになりました。
*横浜線と長津田駅
横浜財界人・原善三郎ら貿易商人が中心となり、1908年(明治41年)私鉄の横浜鉄道株式会社として、東神奈川~八王子間42.6kmとして開通しました。鉄道の目的は、生糸・絹製品の輸送でした。信州、上州、甲州から八王子に運ばれ糸にされ、後には産地で生糸にされ八王子に集荷されました。八王子ではスカーフ等織物にされました。
9.青山架道橋:横浜線110年の鉄橋
大山街道は別名青山街道と言われている。そんなことから大山街道(青山街道)を跨ぐ横浜線のガードには「青山架道橋」と表示されている。
この架道橋の石積みも上記の岩川鉄橋と似た構造で、開業時のものである。
・ここから東京方面を青山道、大山方面を大山道という。赤坂見附・青山、渋谷
・青山氏(譜代大名)徳川氏最古参の家来 青山に江戸屋敷があった
10 片町地蔵:道標の石仏(緑区遺産014)
緑区ホームページ
旧大山道と十日市場方面へ分岐するところに、江戸時代在銘の石仏があります。 石仏の台石には、「向テ右リ かな川 左 みそノ口」と刻まれており、分岐を示す道標となっています。 当時の交通標識の類のものとして存在し、大山道や神奈川宿などに行き交う人々の案内となっていたと言われています。 神奈川道が近世に存在していたことを明らかとする道標です。 |
《「ひだり」に合わせて「みぎ」に「り」を添えた語か》「みぎ」に同じ。
神奈川道と大山道(矢倉沢往還)が交わる所に道標を兼ねた舟形地蔵塔がある。この地蔵塔の台座には次のように刻まれている。
舟形地蔵塔
台石正面 向テ右り かな川 左 みそノ口
地蔵塔台石
本体正面 武州都筑郡長津田村 奉造立地蔵菩薩 享保二十乙卯四月吉日
台石正面 南カナ川道
施主 河原浅右衛門 河原清兵衛
東江戸道
参考:ここに加藤外記という人の碑があった。
米軍輸送部隊のトラックが「加藤外記の碑」を壊してしまった。
加藤外記は長津田の人で、無許可で長津田より恩田に通じる道を拓い た。これが領主より反逆の企ての証であるとして捕らえられた。そしてこの地蔵堂の所に集められた村人の前で処刑されたという。
*「神奈川道」は神奈川の港から十日市場を通り町田・八王子につながる生活道路で、明治時代は絹の道として使われ、明治41年の横浜線の開通は絹の輸送を目的としていました。開通後宿場まちは廃れて行きました。現在長津田駅の周辺は再開発で新たな展開が始まろうとしています。
9.下宿の常夜灯(長津田十景⑦)
下宿の常夜灯は高さ210cm、1817年(文化14年)に宿中の大山講中が建立したものです。暗い道をほんのりと照らし、道の真ん中で旅人を迎えた常夜灯は、大山道と神奈川道、鎌倉道が合流する道の中央に置かれていました。祭礼などの特定の日は、一晩中菜種油等で灯し、道路の安全と旅の安全をつかさどっていました。
大山詣での記録として、参加者には宿、下長津田、東光寺、恩田の方々の名前が書かれています。長津田の繁栄がうかがわれます。上宿常夜灯と共に横浜市地域史跡に登録されています。
*長津田宿
長津田宿は、荏田から2里(8㎞)、鶴間へ1里(4㎞)の中間の宿場であった。その多くは旅人相手の商売をいとなみ、50~60軒の家が並び、旅籠屋(はたごや:宿屋)が6~7軒もあった。その他に、飯屋・酒屋・甘酒屋・もち屋・せんべい屋などの店、駕籠屋(かごや)や馬方などの業者もあった。・昭和28年(1953年)の大火によりその町並みは失われてしまった。
*大山街道;矢倉沢往還、大山信仰・大山講「大山道」長津田宿場町、現在国道246号
*渡辺崋山と俳人兎来
・画家で蘭学者の渡辺崋山は(三河の国藩家老・蘭学者・画家)が1832年(天保2年)に
江戸から厚木までの紀行を「游相日記」に記しています。
長津田宿では兎来(とらい;俳号)が商う萬屋(新倉藤七;きざみタバコを売ったり、提灯の絵を画く画家)を訪ねて休息した。兎来の俳句仲間琴松(きんしょう;河原松五郎;俳人)がきざみタバコを買いに立ち寄り、俳諧を通しての交歓をしました。琴松の家に書や絵が伝わっています。
江戸時代のひところは栄えた長津田も、やがて鉄道の発達とともに、旅人相手の商売は成り立たなくなり、転業・廃業する家が出てきた。現在、大山道沿いの老舗の流れをくむ店は、僅か一軒だけとなった(屋号豆腐屋:現・河原菓子店)。
②2008年(平成20年)3月には長津田十景をデザインした絵タイルが、霧が丘―長津田線の歩道上に設置されました。今後、駅方向、長津田宿方面に増やしていく予定です。
10景のタイル以下入れる。
10 大林寺(長津田十景:大林晩鐘)
山号を慈雲山といい曹洞宗に属し、釈迦如来を本尊とする。かつては長津田領主・岡野家の菩提寺であった(御朱印地15石を受けていた)。
平成16年から総工費約12億円をかけてお寺のほぼ全てを建て替えた。平成19年に建物部分の建て替えを終え、引き続いて庭園や塀等の整備を経て平成20年11月に落慶式が盛大に実施された。
*安定した地域の治め
岡野の殿様;後北条の評定衆であった板部岡江雪融成(みちなり)は論客で雄弁、秀吉の臣となり関ヶ原の戦いでは徳川の陣にあり、小早川秀秋の内応の仕掛け人であったという。秀吉、家康、に愛された天下の行政マン
*子どもの房恒が1590年(天正18年)徳川家康から500石の旗本にとりたてられ、長津田の領主となりました。長津田の他4か所で1500石の知行でした。
・岡野の殿様は初代岡野房恒から11代280年間続く
・岡野の殿様が大林寺・大石神社、王子神社・福泉寺の開基創設
1)大林寺梵鐘
第2次世界大戦時に供出された鐘がついに戻らなかったため新たに鋳造されたものである。
1796年(寛政8年)造られたものである。
新しい鐘は口径1メートル強、高さ1.6メートル、重量が450貫(1687キログラム)で、富山県高岡市の老子製作所が鋳造を担当した。
おいご製作所 国内シェアの約70%を占める梵鐘の大手メーカーである老子製作所は、400年近く続く高岡銅器の歴史
2)領主岡野家代々の墓
本堂の裏にある墓地のほぼ中央、生垣に囲まれて領主岡野家累代の墓碑がある。宝篋印塔(ほうきょういんとう)、角塔、自然石などさまざまで堂々たる墓石が並んでいる。ここには岡野家初代領主の房恒の父・江雪から十代の成政(しげまさ)までの墓石がある。この岡野家の墓は横浜北部区域で殿様墓として随一であるという。
シキミ(樒)の木 有毒で墓があらされないように植えられてた 花びらは淡黄色
長津田の教育の祖・関根範十郎の墓、引田天功の墓などもある。
*道路に面した延命地蔵堂の中に嘉元の板碑(1303年)鎌倉時代
「地上に高さが140cm、幅は下部の一番広いところで53cmもあり、この辺ではこれほど大きく立派なものは少ないという。
公明編照、十方世界、念仏衆生、摂者取不捨」なみあびだぶつ 極楽往生
死者の追善供養のために建てた平たい石の卒塔婆(そとば)。
秩父産の青石(緑泥片岩)で作られた。緑泥岩 種字(しゅじ)梵字
古文書によると上宿竜昌寺廃寺境内にありあったものを明治34年に移転しました、600年の風雨でもよく見えるがおそらく東光寺の遺物ではないかといわれている。
11.長津田古墳群 長津田宮の前遺跡
*メイン通りの246号線から最初の信号から右折すると、「御前田の石仏群」もあります。