大山道について
大山は、神奈川県丹沢山系にあり、古くから雨乞いや豊作祈願の神として信仰されてきました。江戸時代に入ると御師の活動などにより大山信仰は一層盛んになり、各地から大山に向う参詣路が作られました。大山道は主要なものだけでも8道もありますが、今回取り上げる大山道は赤坂見附を起点とし大山に至る最も参詣者の多くが利用した全長約70Kmの青山通り大山道です。
大部分が「矢倉沢往還」と重なり、矢倉沢往還は東海道の裏道として、各地の商品を江戸に運ぶ重要な輸送路として利用され、大変栄えました。この道が「大山参詣道」として庶民に盛んに利用されるようになったのです。都心を通り、道幅も拡張され、街道の面影はあまりないと思われますが、古道なりの面影や周辺の歴史的な遺物を探して歩きます。
国土地理院地図より作成
田園都市線長津田駅⇒永田町駅(7番出口)⇒300m⇒①赤坂見附⇒120m⇒②弁慶橋⇒300m⇒③清水谷公園★⇒650m⇒九郎九坂⇒⇒④豊川稲荷★⇒200m⇒牛鳴坂⇒150m⇒⑤武家屋敷門⇒140m⇒弾正坂⇒130m⇒薬研坂⇒240m⇒⑥高橋是清記念公園★⇒120m⇒⑦青山スクエア★⇒1100m⇒⑧神宮外苑★昼食
⇒800m⇒⑨梅窓院⇒800m⇒⑩善光寺⇒600m⇒高野長英の隠れ家⇒1040m⇒⑪金王八幡宮★⇒100m⇒⑫豊栄稲荷神社⇒730m⇒⑬御嶽神社⇒400m⇒渋谷駅解散
①赤坂見附
江戸城の「江戸城三十六見附」のひとつ。見附は城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入の警備のための城門のことで、江戸城には外濠および内濠に沿って36の見附があったとされています。赤坂見附は枡形門(まさがたもん)の形式で、これは江戸城の田安門、清水門などと同じです。実数は明らかになっていません。
②弁慶橋
赤坂見附から紀尾井町(きおいちょう)に向う外濠を渡る橋です。江戸城南側の外濠はほぼ埋め立てられ、道路などに変りましたが、この弁慶濠だけが、唯一、濠の形態を残している場所となっています。明治22年(1889)に、それまで神田松枝町と岩本町との間にあった弁慶橋が不用になったため、ここに移されました。江戸城普請の大工の棟梁であった弁慶小左衛門が作った橋であることから、弁慶橋と名付けられたといわれています。弁慶橋ができて、それまで遠く迂回していた両側の住民は大変喜びました。清水谷公園前の道も賑やかになりました。現在の弁慶橋は、昭和60年(1985)11月に改架した、長さ44.75m、幅22.0mのコンクリ-ト橋です。
③清水谷公園(しみずだに公園)
公園の周囲は紀尾井町と呼ばれ、町名は紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家のそれぞれの中屋敷があった事に由来します。紀州徳川家から清水が湧き出ていたことから清水谷と呼ばれました。
明治11年(1878)大久保利通が不平士族6名によってこの付近で暗殺され、人々に衝撃を与え、公園中央付近の小高くなった所に大久保公哀悼碑が建てられました。公園の一画に江戸時代の石枡と木管が展示されているのは、麹町大通り拡幅工事の際に出土した玉川上水幹線(本管)の一部です。
④赤坂 豊川稲荷(豊川稲荷東京別院)
大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の子、忠宣が赤坂の屋敷内に三河の豊川稲荷を分祀したのが始まりです。愛知県の豊川稲荷妙厳寺(みょうげんじ)の別院で、荼枳尼天(だきにてん)が稲穂を担ぎ、狐に跨っているので、通称「稲荷」と呼ばれているお寺です。荼枳尼天の起源であるインドのダーキニーは、人肉を食べる魔女ですが日本では稲荷信仰と混同されて、白狐に乗る天女の姿で剣、宝珠、稲束、鎌などを持っています。戦国時代には、各地の武将が城鎮守稲荷として荼枳尼天を祀(まつ)るようになったようです。たくさんの狐の像が置かれ、七福神めぐりの像や大岡越前守忠相の廟があります。
⑤武家屋敷門
この武家屋敷門は、元々幕末江戸は八重洲、現在の東京駅構内にあった、老中、本多美濃守忠民(ほんだ ただもと)の武家屋敷門です。五万石以上の大名にしか許されない様式で、移築された現在は、幅十一間(約20m)ですが、当時は長屋を含めると五十二間(約94m)もあったそうです。大名屋敷として我が国に現存しているのは、僅か三門に過ぎません。太い木材を用いた建物は切妻造本瓦葺きで、簡素な中に豪壮さがあります。中央に両開き戸と潜戸(くぐりど)、両側に出番所を備えます。出番所は片流れ屋根とし、やや装飾的で、建物に威厳と格式を与えています。
⑥高橋是清(たかはしこれきよ)記念公園
この公園は、首相、蔵相などをつとめた高橋是清翁(1854年~1936年)の邸宅があったところです。昭和11年(1936) 2月26日ここで叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ、暗殺されました。(二・二六事件)。享年82歳。昭和16年東京市が公園としました。隣のカナダ大使館も敷地でした。母家は現在、都立小金井公園に移されています。
⑦伝統的工芸 青山スクエア
100を超える伝統的工芸品産地の工芸品が展示、即売されるユニークなショッピングセンターです。伝統的工芸品とは、日常生活に使われるもので主要工程が手作りであること、100年以上前から続いている技術・技法で作られているもので、100年以上前から使われている原材 料で作られるもの、そして産地がある程度の規模を保っていることが、基準となっているそうです。
江戸時代来日した西洋人は蒸気機関の動力を使用しないで、これだけ精巧にできた工芸品のレベルの高さに驚いていました。江戸時代に作られたものとして見てみましょう。
⑧神宮外苑
明治天皇崩御後に建設が計画され、全国からの寄付金とボランティアにより、葬場殿の儀が行われた青山練兵場跡地に大正15年(1926)10月に完成した洋風庭園で、内苑(渋谷区代々木にある明治神宮)に対して、外苑と呼びます。広大な敷地の中に、よく知られている銀杏並木や明治神宮野球場(神宮球場)があります。
⑨梅窓院(ばいそういん)
浄土宗梅窓院は、寛永20年(1643)徳川家康公以来の家臣、老中青山大蔵少輔幸成(おおくらしょうゆうゆきなり)公が逝去の時、 青山公の下屋敷内に13,247坪の地を画して側室が寄進して建立されました。青山家の菩提寺として今日まで歴代の当主、十三代の霊が祀られています。以来、青山家の屋敷があることから青山と呼ばれました。(青山氏は譜代大名として掛川藩や郡上藩などの藩主を歴任)
⑩善光寺(ぜんこうじ)
南命山善光寺。信州善光寺の東京別院です。赤い仁王門で、その裏側に、漆塗りの台に風神・雷神の木彫りの像があります。境内には、高野長英の名誉回復を記念して勝海舟の撰文による顕彰碑があります。長英は幕末の医師で、シーボルトに蘭学を学び、幕府の対外政策を風刺した「夢物語」を書いて投獄され、その後脱獄し逃亡しましたが、青山に潜伏していたところを町奉行に拘束される際に自害した最後の地となった(隠れ家の碑が青山スパイラルビルの柱にある)と伝えられています。
⑪金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)
寛治6年(1092)現在の渋谷に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった渋谷重家(河崎基家)によって創建されました。社名の「金王」は、重家がこの神社に祈願して嫡男が金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより名を金王丸と称したことによるとされます。金王丸(土佐坊昌俊とさのぼうしょうしゅん)の名は平治物語、吾妻鏡、平家物語などにみえ、その武勇のほどが偲ばれます。また、徳川家の信仰を得、3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとされ伝えられます。渋谷の地名の由来とも言われ、三枚の算額、鎌倉時代の神輿が展示されています。金王桜(頼朝が鎌倉から移築した一枝に一重と八重が混ざって咲く珍しい桜)や「渋谷城・砦の石」と伝わる石塊が残っています。
⑫豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ)
昭和36年(1961)田中稲荷神社(渋谷氏によって創建されたという。)と道玄坂にあった豊澤稲荷神社が合祀されて建立された神社である。ここには、近在にあったものを集めたという13基の庚申塔がありますが、その像容は多種で、一般的な六臂の青面金剛に天邪鬼や三猿がいるもの、青面金剛像だけのもの、また三猿だけのものがあります。
⑬宮益 御嶽神社(みやます みたけじんじゃ)
修験道の神である蔵王権現を祀った神社で吉野金峰山寺(きんぷせんじ)が本社でしたが、明治の神仏分離令・修験道廃止令により御嶽神社となった。坂の途中にある神社の御利益があることから宮益坂と呼ばれる。狛犬(こまいぬ)は全国的にも大変珍しい日本狼石像で、延宝年間(1673~1681年)の作品だと思われます。本物は社務所内に安置してあります。社殿前狛犬は、ブロンズ製で、多田端穂が原形をモデルにして製作したものです。(オオカミは、山そのものをご神体とする社のご本尊のお使いとされます。)