ガイドボランティアと歩く大山道3        2018年(平成30)3月15日

国土地理院地図より作成

 

はじめに

 大山街道のウォーキングの3回目は長津田からつきみ野までとしました。長津田地区は緑区ボランティアガイドとしては馴染みの地区ですが、大山街道としての視点から眺めて頂きます。長津田地区は近世、矢倉沢往還と神奈川道の結節地で宿場町として栄えました。横浜開港後は絹糸の集散地である八王子から横浜港へ輸送する中継地として発展しました。街道沿いでは、新田義貞や渡辺崋山の游湘日記をたどって当時を偲びます。

① 長津田駅から大山街道に出て、西に向かい竜昌寺跡を通り、大石神社に至ります。竜昌寺跡の辺りが長津田宿の中心地で高札場がありました。大石神社には上宿の常夜燈があります。大石神社から長津田小学校の脇道を通ります。此処は当時の大山道の風情を僅かですが感じさせるところです(長坂夜雨)

 ② 天王社は牛頭天王宮(ごずてんのうぐう)ともいい、京都八坂神社が本社です。長津田領主岡野家以前に長津田にあった引田家の祖先が祀った神社です。林谷戸は昔伯楽の谷戸と言われ、長津田の宿場で活躍した馬の世話をしたところと言われ馬の医者や蹄鉄をつくる人たちが住んでいました。

此処には二十三夜塔、馬頭観音、道祖神などの石仏があり、大山街道の雰囲気が残る場所です。つ

くし野アスレティックでは、林谷戸の昔の様子をお聞きします。

③ 馬ケ背は地形が馬の背に似ていて、尾根に大山道が通っていたことに由来して名前が付けられました。見晴らしが良く、町田や丹沢方面を眺望できます。辻の庚申塔と道祖神、町田辻の道祖神が対面するように置かれています。村の境界を示していたのでしょうか。

 ④ 大山街道は長津田を過ぎると再び国道246号に合流します。そのまま西へ向かうと町田辻の交差点で、旧大山街道と国道とに分岐します。ここからしばらくの区間は旧道を楽しむ旅が味わえます。暫く行くとセブンイレブンのそばに大ケ谷庚申塔が見られます。後ろの石碑は「供養塚」といって天明の大飢饉で江戸を逃れてきた避難民の犠牲者を供養したものという。圓成寺(えんじょうじ)は、天正時代(15731592)には創立していたといわれ、境内には下鶴間村を支配した領主、江原家の墓があります。

 ⑤ 目黒の交差点付近では、国道に阻まれて迂回せざるをえませんが、境川の鶴瀬橋を渡ってすぐ右に観音寺があります。大火により地域一帯が焼失したが、観音堂だけが難を免れたことから、この11面観世音菩薩を本尊と仰ぎ、寺号を今の観音寺に改めたといわれます。また、天文13(1544)作と思われる大和市重要文化財指定第一号の「厨子」があります。

  この観音寺から先が下鶴間宿です。当時は「松屋」、「三津屋」、「ちとせ屋」

といった旅篭や、床屋、酒屋、小間物問屋等もあり、多くの旅人で賑わっていたとのことです。

 

 ⑥ 大山阿夫利神社御分霊社は大山街道の下鶴間宿に入ってすぐ右側にあります。江戸時代、江戸方面から来た旅人は、ここで草鞋を履き替え、身と財布を清めて、金運にあやかるよう祈願したといわれています。境内には大黒天開運神社の他、金運長命大黒主大神と出世太閤豊臣秀吉公霊があります。また入口のすぐ左手には、新田軍の鎌倉進撃地図が掲げてあります。神社の前には「相州鶴間村」と刻まれた道標があり、右側に「是より東江戸十里」、左側に「是より西大山七里」と刻まれています。

 ⑦ 鎌倉古道と大山街道の交差点には、高札場があります。この建物は、下鶴間ふるさと館で、市指定重要文化財の旧小倉家住宅の母屋と土蔵が復元されたものです。母屋は安政3年(1856)に建築されたもので、この辺りに残された唯一の建物です。(ここで昼食となります。)ふるさと館の前には、伊能忠敬測量隊(第九次測量隊)が文化13 年(1816)3月18日下鶴間村の組頭長谷川彦八家(神奈川県議会議長も務めた)に泊まったという屋敷があります。この長谷川家には、渡辺崋山も当初宿泊する予定でした。

 ⑦ 下鶴間宿を更に西に行くと鶴林寺があります。寺には念仏修行で生きながら土中に入り、息を引き取った層の菩提を弔った「生き地蔵」と呼ばれる地蔵が伝えられています。寺はちょっとした丘の上にあるので眺めがよく、境内には大和市の名木に指定されている大銀杏があり、壮観です。また敷地内に明治の鶴鳴学舎(下鶴間学校)の跡地も保存されていて歴史を感じさせます。

 ⑧ 鶴林寺の先の丘の頂上には「まんじゅう屋」跡があります。現在は「記念碑」があるだけですが、天保11(1840)には、渡辺崋山も投宿しました。その店先で饅頭を売っていたところからこの名で呼ばれていました。

 渡辺崋山は三河国(愛知県)田原藩家老で、南画家・蘭学者としても知られています。幕府の海防方針を批判したことにより蛮社の獄に連坐、国許蟄居を命ぜられて自害しました。崋山は天保2年(1831)9 月、十三代田原藩藩主の異母弟三宅友信の命を受け、相模国高座郡早川村(綾瀬市)に住む友信の実母「お銀」の消息を尋ねる旅に出ます。その旅の様子は、崋山が書き記した『游相日記』(ゆうそうにっき)によって知ることができます。弟子の高木梧庵(ごあん)と共に920 日江戸を出発した崋山は、翌21 日恩田村、長津田村(横浜市)を経て境川を渡り、下鶴間村の旅籠「まんぢう屋」に宿をとりました。この時の様子について崋山は、「酒を命し、よし。飯うまし。」と記しています。