2019年(令和元)年5月23日
令和初めての緑区ガイドボランティアと歩く
大山街道シリーズその5 最終章・・・御師と大山講・・・
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1 三の鳥居⇒2 権田直助子孫の家⇒3 阿夫利神社社務所(旧八大坊下屋敷跡)⇒4 愛宕滝(権田公園・権田直助の墓)⇒5 良弁滝・開山堂⇒ 6 おおすみ山荘(江戸時代からの先導師旅館見学)⇒ 7 昼食(昼食後、旅館あさだにて先導師の話)⇒8 茶湯寺
1 三の鳥居
三の鳥居は、結界と俗界との境を示すといわれ、ここからが参道になる。ということは、ここが大山道の終点と考えてよいと思われる。一の鳥居は伊勢原駅前(本来は四ツ谷大山道の入口、辻堂駅の近く)に、二の鳥居は途中の「道灌塚前」バス停の近くに、四の鳥居は阿夫利神社下社の入口に、それぞれ建っている。
2 権田直助(ごんだなおすけ)の子孫の家
平田学派の国学者で阿夫利神社の初代神官。幕末から明治にかけての尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士として活躍し、神仏判然令*7が発せられるや廃仏毀釈*8運動に従事すると共に、大山の神道化を推進し、様々な改革を行った。阿夫利神社下社に坐像がある。
3 阿夫利神社社務所・勝海舟神社
現在の阿夫利神社社務所は、旧八大坊下屋敷である。八大坊とは、大山寺別当である真言宗の寺院。能楽殿や、樹齢400年のカシワの大木も有名である。境内にある勝海舟神社は、戦後、千足(せんぞく)の勝海舟の別邸にあった祠(ほこら)を大山に移築したものである。海舟と大山の関係はわからないが、山岡鉄舟、高橋泥舟筆の碑が近くにある為、幕末の三舟を意識したものだろうか。
4 愛宕滝(あたごだき)
大山詣での人々が、良弁滝と共に、参詣の前に禊(みそぎ)をするところ。
5 開山堂・良弁滝(ろうべんだき)と権田直助の墓
開山堂には、大山寺を創建した良弁僧正43歳の像と子供の頃東大寺二月堂の大杉にかけられた良弁僧正が山王の使いである猿に助け降ろされたという伝説から、猿が金鷲童子(こんじゅどうじ)を抱いた像が、安置されている。良弁滝は、良弁僧正が入山後最初に水行(すいぎょう)を行ったところ。近くに権田直助の墓もある。
6 宿坊 おおすみ山荘
おおすみ山荘は、鎌倉時代から続く大山でも最も古い宿坊の一つで、先導師*1の宿として大山講の人々の参詣を手助けし、食事、宿泊だけでなく、行衣*2や法被(はっぴ)のような着物の準備からお土産の手配まで広範囲な役割を担ってきた。現在の建物は、安政3年(1856年)いわゆる幕末に建てられたもので、外部は玉垣*3、禊(みそぎ)の場が設けられ、玄関には板まねき*4が飾られ、阿夫利神社のご神体「石尊大権現*5」を分割して祀った神殿を供え、古い器や版木(はんぎ)、古文書(こもんじょ)等が豊富である。
おおすみ山荘の第37代の先導師である佐藤大住さんは、現在も長津田大山講をはじめ横浜、東京、埼玉を中心に2,000軒ほどの檀家を持つ現役の御師*1である。
7 茶湯寺(ちゃとうでら)
正式名称は、誓正山 茶湯殿涅槃寺(せいしょうざん ちゃとうでん ねはんじ)。涅槃像が有名である。死んだ霊は49日までその家の棟の下にいて、50日目から黄泉路(よみじ)へ旅立ち、100日目に極楽の門に至り仏となる。101日目はわが家へ帰る日であり、家族は故人の成仏(じょうぶつ)のお礼参りに百一日茶湯供養として茶湯寺へ参拝するという。
用語解説
*1 先導師(せんどうし)、御師(おし)
明治以降は、先導師という。御師は大山に限らず全国の門前町に存在していたが、明治4年(1871年)神宮改革の一
環で御師が廃止された為、ほとんどの地域でなくなった。大山では、現在も46軒の先導師が現役で活動している。
*2 行衣(ぎょうい、ぎょうえ)・・・行者などが身につける白衣。
*3 玉垣(たまがき)・・・講名を彫られた石柱型の石垣。講中(こうじゅう)の寄進によるもの。
*4 まねき・・・宿坊に飾る講名を染め上げた布製の歓迎看板。板製のものを板まねきという。
*5 石尊大権現(せきそんだいごんげん)・・・山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神。
*6 修験者(しゅげんじゃ)、修験道(しゅげんどう)
山へこもって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日
本独特の宗教。その実践者が修験者又は山伏(やまぶし)。
*7 神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)・・・神仏分離令のこと。
*8 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
仏を廃し、釈迦の教えを壊すという神仏判然令をきっかけに発生した一連の動き。仏教寺院や仏像とともに、僧や寺
院が受けていた特権を廃することを指す。