「小山・山下の歴史散策コース」

 

 

 

念仏橋跡(緑区遺産No.009)

 

現在の小山橋は、昭和40年(1965)以前には「念仏橋」と呼ばれていました。

 

室町時代に、観護寺の住職を務めた印融法印(14351519)武蔵国久保村(現・三 保町出身)が念仏を唱え托鉢をして浄財を集め、人々の往来のため土橋をかけたのが、由来と伝えられています。その名前から婚礼などのお祝い事の時にはこの橋を使わず、都橋を渡ったとも言い伝えられています。

 

龍澤山保壽院(曹洞宗)

 

徳川家の旗本・荒川氏の菩提寺として、慶長2年(1597)に建立されました。開基は荒川重世(あらかわしげよ)、開山は英顔麟哲大和尚。保壽院の名前は重世の母の法名「齢山保壽大姉」からとられています。

    以後幕末までの300年余りは、この辺りを治めた荒川氏の手厚い庇護を受け、人々からは

 「殿様寺」と呼ばれ親しまれました。 

   しかし、明治維新の廃仏毀釈などもあり一時は存亡の危機に陥りました。昭和30年代の高度成長時代に入ってからは、寺壇一体となっての尽力の末、今日の偉容を整えるに至ったのです。

    ご本尊は木製の釈迦座像で、釈迦三尊像といわれ、脇侍仏に文殊菩薩、普賢菩薩を従え、金箔

  も保たれ400年の時を超えて今なお荘厳な佇まいです。 

   境内には、ボダイジュ、タラヨウ、ドウダン、サルスベリなどの木々があり、本堂裏の墓地には台座から2メートルほどの荒川氏の供養塔である宝筺印塔もあります。 

   参考;保壽院を開山した英顔麟哲は、長津田の大林寺も開山しています。愛甲郡三田村(現在の厚木市)の清源院(厚木市三田に現存)の5世住職でした。

 小山村殿様荒川長兵衛重世氏

    清和源氏を祖とする源氏の流れで足利氏支流に属し、荒川源氏と称しました。愛知県の三河地

  方に居住していたものと推測され、戦国時代には松平氏(徳川家)に代々仕えていましたが、父重

  詮の時に織田家に仕え、その子重世は本能寺の変後に徳川家康に仕えて数々の武勲をあげ、大坂

  の陣には伏見城代を務めるほどに出世しました。 

   天正18年(1590)徳川家康の関東入国のとき小山村230石と橘樹郡江ケ崎村(横浜市鶴見区江ケ崎町)170石を知行地として賜りました。小山村を本貫とし、恩田川のほとりに陣屋を構え、その周囲に家来を配置して両村を在地支配しました。 

重世はその後、足立郡、上総、下総などの地を加増され八百五十石を知行地として賜りました。 

   三河時代から家来として仕えてきたのが、落合氏(宮の脇)、小松氏(鍛冶屋)、篠原氏(糸屋)、佐藤氏(高島)、新治町の荒井氏(酒屋)の各先祖であったと代々語り継がれてきました。

  

山下小学校跡地(緑区遺産No.020:木造校舎・校門)

    明治5年(1872)7月に西八朔宮前「観照院」(観音堂)に「中村学舎」として、西八朔・北八

  朔・十日市場の児童を集めて開校しました(現西八朔町)。 

   明治17年(1884)に北八朔山下(現北八朔町)へ移転し、昭和17年(1942)に木造2階校舎(現山下地域交流センター)が建てられました(6教室で述べ168坪)。これは横浜市立学校の木造校舎として唯一現存しており、県内にも戦中期の木造校舎は他に残っていません。特に、木造階段は建設当時のオリジナルのまま残されており、躯体部分にも建設当時の部材が残っています。また、校門の門柱や門扉も廃校前のものが現存し、小学校の面影を残しています

    昭和45年(1970)には、現在の山下小学校の位置に分校として校舎が建てられ、昭和49年

  (1974)に分校と本校が入れ替わりました。

   分校となって後の昭和61年(1986)3月に廃校となり、平成元年(1989)4月に山下地域交流センターとして開館しました。

  

和枝福祉会

 

昭和52年(1977)9月27日午後1時20分頃、厚木基地を離陸した米軍機がエンジントラブルにより旧緑区荏田町(現青葉区荏田北3丁目)に墜落しました。事故現場付近に住んでいた土志田和枝さん(当時26歳)を含む9人の死傷者を出した事故から43年が過ぎました。 

   この事故で和枝さんの3歳と1歳の息子は翌朝に亡くなりました。 

和枝さんも全身の約8割にやけどを負い、奇跡的に一命を取り留めたものの、和枝さんの壮絶な闘病生活が続きました。和枝さんは事故から4年4か月後の昭和57年(1982)に31歳という若さでこの世を去りました。心因性の呼吸困難でした。 

北八朔町にある社会福祉法人和枝福祉会は、和枝さんの「元気になったら、福祉の仕事で恩返しがしたい」という思いを父親である勇さんが引き継ぎ、昭和63年(1988)11月に『知的障がい者授産施設(通所)』として設立されました。 

   横浜の港の見える丘公園に「愛の母子像」があります。

  

神奈川道

    緑区民になじみの深い道です。 

中世湊である神奈川湊から南多摩に達する古道です。神奈川湊より鶴見川・恩田川南岸の小机、鴨居、中山、十日市場、長津田へと向かい、ここから成瀬、町田、木曽、御殿峠を経て八王子に達する道です。現在の山下・長津田線に沿う旧道がこれです。 

 このルートは、神奈川湊と内陸部の多摩地方を結んで、古くから生活物資の輸送路として活用されてきました。また、緑区や青葉区は、かつて養蚕が盛んで、江戸時代から明治期にかけて、絹の道としての役割も果たしてきました。 

 近過去的(戦後まもなくのころ)には、緑区周辺域の農家の人たちは、リヤカーや牛・馬車で野菜を東神奈川方面の市場に持っていき、帰りには肥料用に肥桶に糞尿を入れて運んだりもしました。

   

はるみ(コメの品種)

    最近の緑区周辺域の田圃で栽培されるコメの品種は、農協の推奨もあり従来の「キヌヒカリ」

  や「さとじまん」に代わって、「はるみ」が多くなりました。 

はるみは、平塚市東八幡の全農 営農・技術センターが19年の歳月をかけて開発した平塚生まれの米です。平成26年(2014)に正式に品種登録されました。 

名前は「湘南の晴れた海」に由来しており、キヌヒカリの後継品種として開発され、つやがあり強い甘みが特徴です。また、炊き込み後の表層老化度が低く、冷めても硬くなりにくいため冷めてもおいしい品種であり、弁当やおにぎり等に適しています。 

日本穀物検定協会が実施した平成28年産米の「米の食味ランキング」では、神奈川県産米として初の快挙となる最高評価の「特A」の評価を獲得しました。 

平成27年(2015)2月には、神奈川県の奨励品種に決定され、県内で普及するべき優良な米の品種として認められました。 

はるみは、民間企業が単独で開発した米の品種としては、全国で初めて奨励品種の決定を受けました 

従来、神奈川県内の主力品種として栽培されている米の品種はキヌヒカリでした。 

このキヌヒカリは、秋の収穫期に雨か続くと、稲穂から芽が出やすいことが弱点とされ、これを克服することを目的として、キヌヒカリと穂発芽しにくいコシヒカリを交配して作られた品種です。

   

浜なし

   「浜なし」とはナシの品種名ではなく、横浜市内で生産されたナシのブランド名です。平成27

  年(2015)に横浜農協が商標登録しました。 

主な品種は、「幸水」「豊水」です。 

「浜なし」は市場出荷をせず、ほぼ全量を農家の庭先などでの直売で販売しています。このため、市場にでまわらないことから「幻のナシ」とも言われています。 

樹の上で完熟させた新鮮でおいしい果実を味わっていただくのが特徴です。

  

補陀洛山龍光院観護寺(高野山真言宗)

 

瑞雲山三会寺の末寺。中興の祖は印融法印。ご本尊は聖観音如来像。旧小机領三十三所子年観音霊場です。文明12年(1480)伝法灌頂相承血脈抄に記録が残る古刹だが、度々の火災により寺院には記録が残っていません。

  《印融法印》

            永享7年(1435)、都筑郡久保村(三保町)の岩澤家に生まれる。若くして京都、奈良に学び、長

   禄3年(1459)に三会寺4世賢継から伝法灌頂を受ける。 

その後、高野山で研鑽を積み無量光院の院主となりました。 

晩年は、三会寺に戻り真言宗の布教に努めました。永正16年(1519)85歳で入滅  されました。 

印融法印は早くから書を好み、外出するときには子牛に乗り鞍に文箱をつけ、書物を角に巻き付けていたといわれています。 

   多くの著述や書写を残したが、永正5年(1508)に書写した古典書の「塵袋」は昭和46年

  (1971) に国の重要文化財に指定されました。

  《印融法印の墓標》

    中央の五輪塔が印融法印の墓標。昭和63年(1988)横浜市地域文化財指定。 

   左側は真継法印 永禄5年(1562)、右側は印継法印 元和9年(1623)

  《菩提樹》

    お釈迦様がこの木の下で座禅を組んで悟りを開いたことから、悟りの木=ボーディ・ブクリシ

  ャ=ボダイジュと呼ばれた。この釈迦の菩提樹はクワ科のインドボダイジュ(印度菩提樹)で、熱

  帯性のため一般的には日本で育ちません(温室栽培) 

   日本にある菩提樹は、葉の形が似ているシナノキ科の中国原産の落葉高木で、高さは10mほどである。花期は6~7月頃で淡黄色の花を咲かせる。日本へは、臨済宗の開祖栄西が中国から持ち帰ったと伝えられる。日本では各地の仏教寺院によく植えられている。

  《佐藤貞幹の墓》

    嘉永5年(1852)、佐藤義元の次男として生まれました。幼名を英次と云い、20歳 

に雷蔵25歳に貞幹と改名しました。 

明治6年(1873)、久保学舎の教員となり、明治10年(1877)合併した郁文学校の校長になるが、翌年校長を辞め政治活動に身を投じました。 

明治14年(1881)自由党結成大会に神奈川代表で出席、明治17年(1884)3月の  大会で幹事に就任しました。 

明治41年(1908)56歳の時高島嘉右衛門宅の観月会で倒れ没しました。

  《三鈷の松》

     弘法大師が唐(中国)の国に渡って、明州(現寧波ニンポー)の港から帰国の際に、師の東果和尚

  から送られた「三鈷杵(さんこしょ)」を東の空に向かって投げた。 

   帰国後、弘仁2年(816)頃、高野山の松の木にかかっていたという。それで高野山が真言宗の道場として開かれるようになり、その松が三鈷杵(金剛杵)の法具に似ている三葉の松だったので、「三鈷の松」と呼ばれた。一般には三葉の松と呼ばれるが、真言宗では「三鈷の松」という。

 

榎下城(久保城)

   榎下城は室町時代前半に上杉憲清によって築かれました。憲清の子の上杉陸奥守憲直(のりなお)は、

 鎌倉公方足利持氏と関東菅領上杉憲実の対立に始まる永享の乱(14381439)に際して持氏側に属

 して戦いました。しかし持氏は破れ憲直は金沢の称名寺に追い詰められ、息子の憲家と共に自害し

 ました。この後、関東管領上杉氏は小机城を鶴見川支流の防備の中心としました。 

   これ以降榎下城主は不明となりましたが、「新編武蔵風土記」には榎下城主として 

  山田右京之進の名が挙げられています。廃城時期は不明です。

 

 《山田右京之進城址碑(緑区遺産No.015)

    この地は、往古山田右京之進の居住なりと云われました。古き昔、室町時代上杉憲清が城を築

  き、その子憲直が城主となり榎下城と云われていましたが、慶長19年(1614)に久保村の長の遺

  言により、舊城寺を建立しました。 

この碑は、昭和10年(1935)横浜貿易新報社(現 神奈川新聞社)が開催した神奈川県下の名勝史跡四十五佳選(43位)により、投票で当選し記念碑として贈呈されたものです。 

市内でも数少ない中世の城郭遺構を残す、貴重な歴史遺産です。

    参考;緑区内には、他に鴨居の林光寺の参道の右側にある「奇利吹の瀧」が神奈川県下の名勝

           史跡四十五佳選となっています。

 《久保山舊城寺(真言宗)》

    むかし、榎下城の城跡に隠居所を建てて住んでいた、久保村の長・佐藤小左衛門には二人の娘

    がいたが跡取り息子がいませんでした。このため一人の娘に婿を、もう一人の娘を刈屋定弘の長

   男に嫁がせました。定弘の生国は三河国刈屋(愛知県刈谷市)で徳川家康に仕えた武将でした。天正

   18年(1590)の小田原攻めで負傷し、佐藤家に寄寓しそのまま帰農していました。

               小左衛門は隠居した後、二人の婿を呼び寄せ「自分が死んだら跡屋敷を寺として菩提を追善し

    てくれるように」と遺言しました。のちに二人の婿は、跡地に寺を創建し、これが舊城寺であ

    り、寺の由来です。

    山門は、神奈川宿北口(神奈川新町駅そば)にあった長延寺の門を移築したものです。長延寺は

    開港当時にオランダ領事館が置かれていました。現在長延寺は緑区三保町にあります。

   

三保 杉山神社

     祭 神 日本武尊

     相 殿 天照大神、猿田彦命

     境内社 天満宮

  《三保 杉山神社の由緒》

           杉山神社は、創建の時期は不詳ながら、慶長9年(1604)まで近隣併せ8か村の総鎮守であり、そ

   の後久保村(現三保町)の鎮守となる。 

明治維新後国家管理の下、明治6年(1873)に村社に指定され、同41年(1908)に村内五社を合祀、大正9年)1920)に神饌幣帛料供進神社に列せられる等の経緯を辿るも、昭和21年(1946)の緊急勅令に基づき神社本庁を包括団体とする自主団体として存続する事となり、同28年宗教法人杉山神社として設立され現在に至る。(境内石碑より) 

参考;狛犬の石工は、烏山の足立光一である。足立光一は青葉区千草台の杉山神社、北新羽総鎮守杉山神社、などの狛犬も手掛けています。

   《近隣併せ8か村の総鎮守とは》

     この周辺域は、慶長9年(1604)以前は榎下郷と呼ばれていました。 

榎下郷とは、榎下村、久保村、台村、寺山村、中山村、小山村、十日市場村、青砥村の範囲

です。 

    これが慶長9年に広域の榎下郷(榎下村)が上記8つの村に分郷(分村)したため、その後は神社が存在していた久保村のみの鎮守になったと思われます。

 《三保 杉山神社付近》赤羽毛(あかばっけ)

     三保 杉山神社付近を通称「赤羽毛」(赤土に由来)といった。

                  横浜線の停車場は、当初ここが予定されていた。この頃の赤羽毛は、この付近で最も栄えてい

      て、お茶屋、饅頭屋、床屋、水車屋、駄菓子屋が軒を並べ、お茶屋には金持ちや人夫が集ま

      り、賭場も開かれていた。

 《佐藤貞幹の家》

     杉山神社脇の赤羽毛の土地に、かつて佐藤貞幹(「観護寺・佐藤貞幹の墓」:4頁参照)の家

     があった。佐藤家は、江戸時代後期から明治維新にかけて文道、汶栖、養元(貞幹の父)と3代に

    わたって医業を営んできた家柄であった。佐藤家の屋敷は、元々梅田谷戸の坂下にあったが、医

    業を営むためと寺子屋を開いたため、人々が通うのに良い場所ということで、赤羽毛の土地に家

    を移したという。

 

    貞幹が明治41年(1908)に亡くなると、佐藤家の人々は住み慣れた村を離れた。今「三保」の交差点には佐藤家を偲ぶものは見当たらない。